司馬遼太郎(1923ー1976)の「街道をゆく」シリーズは、「湖西のみち」から始まる。湖西は近江国(滋賀県)の西部だ。彼は「私はどうにも近江が好きである」と語っていた人だった。

 湖西は現在の高島市と、大津市北部だ。その西には比良山地が聳え、其処から流出した安曇川が琵琶湖に注いでいる。湖北は長浜市と米原市。その東にあるのは伊吹山地で、琵琶湖には姉川が注ぐ。

 湖東は彦根市と東近江市と東近江市と近江八幡市と野洲市。ならびに琵琶湖に接していない犬上郡(多賀町)、愛知郡(甲良町・豊郷町)、蒲生郡(日野町・竜王町)が含まれる。その東にあるのは鈴鹿山脈で、愛知川、日野川、野洲川などが琵琶湖に注いでいる。

 湖南は大津市南部と守山市、草津市。そして琵琶湖に接していない湖南市と甲賀市が含まれる。その南にあるのは鈴鹿山脈の南端と、そして取り立てて集合名が無い山々だ。甲賀市の三重県側に突き出した県境の中央には、「神君(徳川家康)伊賀越え」で有名な御斎峠がある。そのあたりから北に流れ出た大戸川は、やがて西に折れた後に瀬田川に注ぐ。瀬田川は琵琶湖の南端から流出する川の名で、やがて宇治川と名を変える。宇治川はそのあと桂川ならびに木津川と合流し、淀川となって大阪湾に流れ出るのだ。

 ちなみに県境を接するのは湖西が福井県と京都府で、湖北が福井県と岐阜県。湖東は三重県で、湖南は三重県と京都府である。つまり近江国(滋賀県)は周囲を山々に囲まれた擂鉢地形で、その底に琵琶湖があるのだ。なお三重県の伊賀盆地は、古琵琶湖の一部である。

 司馬遼太郎は「街道のゆく」で、そのあと2度近江国を描いている。「甲賀・伊賀のみち」と、「近江散歩」だ。前者は(近江は)湖南の甲賀のみを描き、後者は湖北と湖東を素描している。この作家の文章スタイルは独特で、現在と過去を自在に往来する。例えば前者は後に世に知られた「鈎(まがり)の陣」(甲賀衆がゲリラ戦で足利幕府軍を翻弄)のことが描かれ、後者は姉川の合戦の模様が活写されている。

 1960年代前半の「忍者ブーム」の火付け役となった司馬遼太郎だが、 その実在については懐疑的である。御斎峠(彼の出世作「梟の城」は此処からスタート)の紀行文として、以下のように書いている。

 

いわゆる伊賀者や甲賀者が法術家のむれだったかどうかは、いまとなればよくわからない。忍術が存在したのかどうかも、ほとんどが江戸期に成立したはなしに拠るもので、実際には確かめるすべもない。が、そういう伝承や伝説が成立しうる何かが伊賀や甲賀というこの土地に存在したことだけはたしかである。そのあたり、山鳩だったのか雉だったのか、足もとから立った鳥の羽音と霧の中の影に似ている。


 御斎峠は伊賀国の北端に在り、峠を北に下るとすぐに近江国甲賀に入る。山中にある多羅尾の集落を抜けると、小盆地の信楽町に出る。此処も未だ甲賀市で、其処に至るルートは(前出の)大戸川添いだ。大戸川はやがて信楽北端の黄瀬に至る。紫香楽宮趾がある地だ。其処から大戸川は西に曲がり、大津市に入る。そして湖南アルプス(田上山など)を貫いて、前述のように瀬田川に出るのだ。このルートは、現在の新名神高速道路沿いである。司馬遼太郎は1973年に、その旧道を(車で)紀行したのだ。

 四輪車の運転免許を持たない(原チャリのみ所有の)私は、この道は辿りずらい。私の甲賀紀行は、それより北のJR草津線利用で始まった。東海道本線草津駅から、関西本線柘植駅に接続するローカル線だ。草津線の少し北を国道1号線が走っている。こちらは古の東海道沿いで、有名な鈴鹿峠を抜けて伊勢に出るルートだ。草津線と国道1号線はやがて接するのだが、そのあたりは甲賀市北西部の水口町である。そして水口町の北には、蒲生郡日野町が接している。2020年8月19日の私の紀行は、甲賀の水口町から始まった。そして北東に歩き、そして日野町に抜けた。以下はその記録である。

 草津線の貴生川駅で近江鉄道に乗り換える。湖東の近江平野を縦断して米原に至る超ローカル線だ。2両編成の電車が出たのは10時28分。そして3つめの無人駅:水口松尾で下車した。駅の周囲に人家は無く、一面の葭原だ。ただ渡良瀬遊水地ほど広大ではない。そして小丘陵が点在する。植生はコナラ等の落葉広葉樹が主だ。

 私がこの日に此の地を訪れた理由は、「あのあたりは湿地だ」という噂を聞き及んだからである。湿地にはアメリカザリガニやカエル類、小魚等の「ニホンイタチの餌になりうる」アニマルがいる筈だ。私はニホンイタチの棲息条件として、「湿潤と乾燥の共存」が必要だと思っている。湿潤は餌条件を満たし、乾燥は営巣条件をクリアする。 この湿地の周縁で乾燥が満たされれば、其処はニホンイタチの楽園になりうるのではないか?…と思ったのだ。

 ところが見込み違いだった。まずもって、カエルが全然鳴いてない。湿地の縁の水たまりを覗いても、アメリカザリガニや小魚は見られない。そしてイタチの生活痕跡(糞や足跡)は全く見つからない。湿地内を貫く道が少ないので、それを見つけにくいという事情はある。でも、「うーん、これは…(あかんなあ)」と思わざるを得なかった。なお「乾燥」を満たす条件としては、放水路の護岸壁の隙間がリストアップ出来る。だがこの湿地の護岸壁には、イタチが入り込める隙間は無いようだ(写真1)。

 

【写真1】

 蝉の声もプアである。ニイニイゼミとツクツクボウシが、か細く鳴いているのみだ。鳥も飛んでない。目撃出来たアニマルは、トノサマガエルとタゴガエルのみだった。いずれも各1頭である。猪のものと思われるけもの道が見つかったが、それも多くない。レイチェル・カーソンには「サイレント・スプリング」という著書があるけれど、その連想で「沈黙の夏」というフレーズを思い浮かべてしまった。

 アニマルウォッチングが不発だったので、植物の花に注目した。以下4種につき解説する。まずは写真2のタカサゴユリ。ユリ科で、台湾の固有種である。日本には大正時代末に渡来したが、何故か特定外来生物の指定を受けていない。けれども環境省は、駆除すべしとの要望を出している。

 


【写真2】


 写真3はセンニンソウ。キンポウゲ科の在来種だ。ウマクワズ(馬食わず)の異名もある毒草である。

【写真3】

 写真4はアメリカネナシカズラ。ヒルガオ科で北米原産で、寄生植物である。特定外来生物生物の指定を受けているが、とりたてて「駆除」はされていないようだ。

 

【写真4】

 写真5はルドベキアsp.。キク科で、特定外来生物だ。ただやはり、とりたてて「駆除」はされていないようである。改めて、「特定外来生物法に"意味"はあるのか?」と思わざるを得ない。

 

【写真5】

 湿地内を通る車道は国道307号線だ。それを2km程歩くと、やがて蒲生郡日野町に入る。途端に湿地が消え、水田が現れた(写真6)。獣害防止の柵が張ってあり、近づけない。更に少し歩いた後に、東にコースアウトする。そして漸くイタチの糞を発見した(写真7)。場所は、近江鉄道に架かる橋の上だ(写真8)。

 

【写真6】

 

【写真7】

 

【写真8】

 サイズからして、ニホンイタチ雌のものではない。ただそれ以外のことは、DNA分析抜きには何とも言えない。シベリアイタチの可能性も、あるのである。ちなみに内容物は、バッタsp.だ。そして結局、この日に発見したイタチの生活痕跡はこれのみだった。

 更に東に歩くと、ミンミンゼミが鳴き出した。アブラゼミもだ。此処でもツクツクボウシは鳴いているが、ニイニイゼミの声は聞こえなくなった。ヒグラシは鳴いてない。今年の夏は、ヒグラシの声をあまり聞いてない。少しく気になる。

 日野町の水田は、何処も獣害防止の柵で囲まれている。それでも一カ所それが切れている場所があったので(写真9)、柵内に入ってみた。稲は結実していて収穫間近であり、泥は乾いている。それでもイタチが歩いていれば、その痕跡が残っていてもよいと思う。でもそれは見つけられなかった。乾いた泥が広がる水田内にはバッタはおらず、むろんカエルの姿も無かった。

 


【写真9】


 やがて緩やかな坂を下り、下迫の集落に出る。このあたりには、鳥が飛んでいた。確認した種は…アオサギ、ダイサギ、ハクセキレイ、そしてハクセキレイである。私のバードウォッチング能力は高くないけれども、それでも「プアだ」と思わざるを得なかった。

 北に1km程歩き、別所橋を渡る。日野川に架かる橋だ。この川のやや陸化した部分は、広葉の草で覆われている(写真10)。その群落内にはアメリカザリガニや小魚等、ニホンイタチの餌になりうるアニマルがいるかもしれない。だが水口町の湿地の例もあり、見かけだけでは当てにならない。「乾燥」…即ち営巣条件は、良くなさそうだ。橋上から遠望した限りだが、護岸壁に隙間は無さそうである。

 

【写真10】

 ともかく川床に下りてみようと思ったが、下り場が見つからない。それを探しているうちにドッと疲れが出た。僅か4kmを歩いただけであり、「我ながらだらしない」と思った。私は自称「肉体40代・精神10代」であり、「SERSーCoVー2なんぞは屁でもない」と思っている。でもなにぶん炎天下だ。免疫力には自信があるが、熱中症云々はそれとは別だ。そもそもこの日は、歩き出してから一滴の水も飲んでない。迂闊にも、飲料水をサブザックに入れるのを忘れたのである。で、とりあえず自販機のある所に行こうと思い、更に1km程先の近江鉄道の日野駅に向かった。其処に着いたのは13時半だ。

 日野駅で自販機で水分を補給し、腹が減っていることに気づいて豚生姜焼定食を食べた。若い頃なら、昼食を抜いてもどうってことなかったですがね。「肉体40代」とか強気を言っても、年は争えないな(苦笑)。そしてその後も、疲れが完全には取れない。それで日野川に戻ることを断念し、帰ることにした。

 貴生川行の電車に乗ってから、「日野町の観光」をすることを忘れたことに気づいた。この町の中心部は駅から1km余の東に在る。如何に年を食って疲れているとはいえ、平地を(往復で)2km程歩いてオシャカになるほどやわじゃない。引っ返そうかと思ったが止めた。日を改めて、また来る機会もあるだろう。

 最後に再び、司馬遼太郎に登場して頂く。日野町の中心部の描写だ。ただし1960年の状況である。

 

13年前の亥年の正月に、にわかに近江の蒲生郡を見たくなった。

地図で見ると、室町に以来の都市である日野町がある。予備知識をもたずにその町に入ると、大正時代にまぎれこんだような家並だった。

というより、京の中京区を移したようである。どの家も木口がよく、街路は閑寂ながら整然としていて、しかもよけいな看板などはなく、品のいい町だった。

日野町は、織豊時代、もっとも知的で武略に富んだ大名として知られた蒲生賢秀・氏郷の古い城下町であった。蒲生氏は鎌倉時代からの地頭だったが、租税徴収だけをする地頭ではなく、歴代、よく百姓を介護した。とくに賢秀・氏郷は商人を保護し、このため氏郷が伊勢松坂に移封されてからも日野商人たちはあとを慕って松坂に移った。このことが、伊勢における商業を盛んにした。

(中略)

蒲生郡日野町を歩いていた日は晴れていたが、町をつつんでいる陽の光までがぎらつかず、空に一重の水の膜でも覆っているように光がしずかだった。


 蒲生氏と現政権の、「あまりの違い」のことを思ってしまう。安倍晋三が辞めても、その本質は変わるまい。家並が(これより60年後の)現在も同じであるかは、何とも言えぬ。もし仮にそうであるならば、「シベリアイタチにとっても住み心地が良い」ように思う。ただそれはあくまで営巣条件で、餌条件は別である。

 


 

ベルこのブログの筆者・渡辺茂樹が顧問として在籍するアスワットのHPベル

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