◎人間はウイルスと共生関係をつくれるか――野生動物世界の視界から考える/渡辺茂樹


 日高敏隆(1930ー2009)の旧著「人間に就いての寓話」(1972)の復刻版が、朝日新聞社から出た。新たなるタイトルは「ホモ・サピエンスは反逆する」(2020)である。この復刻版を再読したので、以下に批評する。
 
 復刻版の「帯」にある阿川佐和子の推薦文が刺激的だ。「今、日高さんの声に耳を傾けなければ、人類は滅亡の道を辿ることになるだろう」というのが、それである。「ちょっと大仰ではないか?」とも、思える。だが今の時代に、日高敏隆の名を知る者は多くない。彼が生きた動物学世界に於いてすらだ。そして彼が説いた「思想」は、ほぼ忘れられつつある。だからこれくらいのことを言わねば、人目を引かない。阿川はたぶん、そう思ったのだろう。
 
 阿川佐和子は某週刊誌にて、「今、もし日高さんが生きていらしたら、このコロナ騒動をどう受け止められるだろう」とも語っている。そのことについては、私は確信がある。私と同じようなことを言ったに違いない。冒頭に引用した「人間はウィルスと共生関係をつくれるか」の論と、同じようなことをだ。
 
 私は日高門下の落ちこぼれであり、自ら「破門」の道を選んだ。以後も、学問的業績はさして無い。けれども日高先生の「思想」については、正統な継承者のつもりでいる。本書に収録されたエッセイの大半は、1960年代末ー70年代初に書かれたものだ。その時代の「反逆の」思想のである。
 
 阿川は更に、「この世界的な危機において…」という言い方もする。私は、日高先生は(もし存命ならば)「世界的な危機なんかじゃない」と言うと思う。それを窺わせるのは、本書の150ー160ページの「人類は滅びるか」(1971)だ。其処では「人類がもし滅びるとすれば、滅亡はみんなが繁栄だと思っているうちに、じわりじわりと、それこそ何世代にもわたって忍びよってくるものなのであろう」と言い、人間以外の(例えばトキやリョコウバト等の) 動物の絶滅については「人間による環境破壊と乱獲のため」と断言する。そして「けれどこのことは人類にはあてはまらないように見える」とも言う。
 
 そして本稿の「締め」は、以下の文章だ。
 

 

人類は滅びるか?  という問いに対しては、今のところぼくはイエスかノーかという形では答えられない。結果は人間が人間のえらさとか優越性というような考えかたを捨てうるかどうかで、きまってくるだろう。ひじょうにはっきりしていると思われるのはその理由がなんであれ、とにかく「人間はやはり動物よりえらい」と思っているかぎり、人間は他の動物と同じように滅びるであろうということだ。


 人類の滅亡は未だ先のことで、私の生存中には多分起きないと思う。けれども日本という「国家」の滅びの危機は、かなり至近に迫っているように思われる。日高先生の死後によく言われるようになった「日本はスゴイ」の妄言が、彼が警告した「人間はえらい」に重なるのだ。
 
復刻版の表題作である「ホモ・サピエンスは反逆する」(1970)の締めは、以下の如しだ。
 

 

 

現代は人間の時代とか、人間復権の時代とかいわれる。それはものをあいまいにするいいかたである、とぼくは思う。なぜなら「人間とは何か」の基準が人によってもちがうからであり、また「人間」ということばを使うことによって、「動物とはちがう」という優越感をますます強調することにもなるからである。多少慎重な人々は「動物とはちがう」というかわりに、「他の動物とはちがう」という。でも所詮は同じことである。
 
もし現代を定義せよと言われたら、ぼくはこういうだろう……現代は人間が Homo  sapiensを抹殺しようとしている時代であると。そして、それならどうするのだときかれたら、こう答えるだろう……Homo  sapiens  の復権をと。
 
お前は動物学者だから、ほんとは動物の復権をといいたいんだろうと、いわれるかもしれない。だがけっしてそうではない。動物にはいろいろなものがいるから、一般的に動物の復権を唱えても、意味がない。人間の中にイヌやネコを復権して何になろう。復権すべきなのは、このHomo  sapiens という動物である。この動物は神のことばによって、地上の支配権を与えられたと引きかえに、動物から絶縁させられた。同じ論理は近代社会に入ったときにもくりかえされ、生産という誇り高いことばと引きかえに、絶縁状態はますます確固としたものになったのである。


 
 この表題作を再読して改めて気づいたのだが、本文には(タイトルにある)「反逆」の文字が何処にも出て来ないのだ。何故だろうと考えた。
 
 日大全共闘の名著「叛逆のバリケード」が刊行されたのは1969年だ。かれらの正義と反逆の精神に深く共鳴していた日高先生は、自著のタイトルにこの2文字を「使ってみたかった」のではないか?。だがその情念が先行し、動物学理論において上手く使いこなすことが出来なかった。それ故ではないかと思う。
 
 そしてこの表題作が出た1970年には、学生達の反逆はほぼ終わる。そして一部の者が迷走を始めるが、それには日高先生は(表向きは)関心を示さなかった。そして1975年には長く勤めた東京農工大学を離れ、京都大学に転籍した。その年は私の大学院入学の年でもあるので、私は(京大での)門下1期生だ。
 
 前出の「破門」という言い方はやや大仰だが、私がいっとき日高先生に反逆したことは紛れもない。私と大学院同期の新妻昭夫(故人)もそうだ。契機はヒューマン・エソロジーを巡ってであり、この件では私の方が正しかったと思っている。だがその詳細は此処では述べない。
 
 ドロップアウトした者は他にもいる。だが「落ちずにアウト」した者は新妻昭夫と私だけだったろう。その新妻は、2010年に鬼籍に入った。己はレアなる生き残りとして、継承した思想を語らねばと思っている。むろん私なりのアレンジを加えてだ。
 
 本書を再読した後に、京都丸善で日高本の在庫を調べてみた。10冊あって、「へえ!、案外多いな」と思った。その中から「犬のことば」と「生きものの世界への疑問」を立ち読みした。
 
 前者は1979年に初版が出て、2012年に新版が出たものだ。収録されているエッセイは、大半が1970年代後半…つまり京大に転籍した後に書かれたものである。後者は1991年に初版が出て重版を重ねたもので、やはり1970年代後半に書かれたエッセイが主である。
 
 ぶっちゃけ、どちらもあまり面白くない。「人間に就いての寓話」(ないしはその復刻版「ホモ・サピエンスは反逆する」)に見られるような思想性が、著しく減衰している。つまり京大に移って来た時の日高先生は、思想家としては「終わっていた」のだ。漠然と気づいていたそのことを、改めて認識させられた。
 
 朝日新聞社も同じことを感じていて、それで1972年初版…つまり東京農工大学教授時代の著作を復刻したのだろう。阿川佐和子が耳を傾けたい日高先生の声も、その時代のものであるに違いない。むろん、私が語り継ぎたい「思想」もだ。

 

 

 

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