本題に入る前に余談を少々。ブカンウイルス(COVIDー19)には"オールドエイジ・クレンジング作用"がありと、剣呑な事を以前に記した。女性は男性に比べると死者が少ない事と(致死率は不明)、アジア人の致死率が低い事もだ。で、「非常に珍しいウイルスだ」と思ったのだが…他のウイルス感染症でのその値を、私は知らないことに気づいた。あるいはどのウイルスでもその傾向があり、ブカンウイルスが「非常に珍しいとまでは言えない」かもしれない。

 例えばスペイン風邪(発祥はUSA)は"若者も多く死んだ"と言われるが、致死率はやはり高齢者の方が高かったように思う。しかして、その変曲点のようなものはあるのだろうか?。そもそも統計がちゃんと取れているのか?…等々、どなたか知っていたら教えて下さい。

 もうひとつ、やや長めの余談を記す。ブカンウイルスの日本全国の感染者数は7399で、死者数は137(致死率1.9%)だという。そして退院者は714(回復率9.6%)だ。いずれもダイヤモンド・プリンセス号関係者は除いた値で、2020年4月13日のネット情報に拠る。

 東京都の感染者数は1033で、死者数は30(致死率2.9%)だ。ただ、その後に感染者数が倍化したという情報もある。この街の感染者が(相対的に)多いのは、むろん人口の多さが一因だろう。ただ金子勝は(日刊ゲンダイの2020、4・15付にて)注目すべき発言をしている。

 東京都台東区の永寿総合病院にて感染爆発が起き、それが慶応、東大、順天堂などの大学病院に波及しているのだという。つまり金子は暗に、ブカンウイルスの主要感染経路は医療施設ではないかという仮説を述べているのだ。エボラ出血熱と同じだな。そして、小池が打ち出した首都封鎖や休業要請はナンセンスだと(暗に)言う。

 同感である。だが金子が提唱する"PCR検査拡充"の案には同意しない。既に膨大に存在する筈の無症状ウイルス保有者は、放置すれば良い。その事象は、"個体群が免疫を獲得しつつある"ことを意味する。犠牲者が(ヨーロッパ諸国に比べて)少なくそれを達成出来るのは、結構なことだ。

 無症状感染者は、感染(させる)力が低いという。けれども多少のリスクはある。ならば人々は、「人間みなきちがい」…ならぬ「人間みなウイルス保有者」と見做して行動すれば良いのだ。マスクのみならず、手袋も装着してだ。とりあえず「外出を控える」ことには、意味が有ると思えない。無学の安倍晋三は、自分の言っていることの意味が分かってないだろうけど。

 ちなみに近畿における感染者数は1172で、退院者は236(回復率20.1%)だという。大阪府の感染者は616で死者数は6(致死率1%)、兵庫県の感染者数は287で死者数は13(致死率4.5%)、そして京都府の感染者数は165で死者数は1(致死率0.6%)だ。

 近畿でも、その後に感染者数が増えたという情報がある。例えば京都府は感染者が193で、死者数は2(致死率1.0%)になったという。でもとりあえず京都では、緊急事態宣言が必要とは思えない。今後も多少増えるかもしれないが、それを上回るペースで退院者も増えるのではないか?。

 ともあれ京都市の中心部は、半ばゴーストタウンと化した。東京はもっと落差が大と聞いている。今後は小規模経営の店や会社が多く潰れ、自殺者も出るだろう。そのような状況でもし地球物理学的災害に襲われたら、ひとたまりも無いのではないか?。東京は相模トラフが近く、近畿は南海トラフが近いのだ。あ、でも、ゴーストタウンになっていれば、人的被害は少ないか(苦笑)。

 ゴーストタウンの京都市内で、革マル派の機関紙"解放"を見る機会があった。曰わく「労働者人民の生活補償なき"緊急事態宣言"の強権的命令反対」「困窮する人民を切り捨てる安倍政権を弾劾せよ」…である。

 甘いなあ、革マルさんは(といっても其れが何か分からん人が多いだろうけど)。安倍の宣言に強制力は無いのだよ。だから彼は決して強権を振るっていない。にも関わらず地方行政の長が次々と彼に同調し、人々は発せられる令に唯々諾々と従っているのだ。弾劾するとしたら、その人々ではないのか?。それと安倍が困窮人民を切り捨てるのは、"結果ではなくて目的"だろう。

 マスクを着けずに自転車で走り去る女性を、すれ違いざまに怒鳴りつける男を先日見た。同調の風潮が進む一方であり、異端者は迫害されつつある。そういえば今の世は、"令和"だったな。中西進は予言者であった。

 以下が本題である。週刊文春の2020年4月2日号に、興味あるコラムが載った。110ページの「文芸図書館」であり、取り上げられているのは中華古典の「老子」だ。文責は書評家の石井千湖(1973ー)。ただその述の多くは、中島孝博(東京大学東洋文化研究所)からの聞き語りである。

 中島は「老子」について以下のように語り始める。

 

 


「老子」と言うと、知や欲をはたらかせず自然のままに生きるという意味の"無為自然"を思い浮かべる人も多く、浮世離れした神秘的な思想というイメージが定着しています。でも、もともと「老子」は政治哲学の本です。第48章に"無為にして而も為さざる無し"という有名な一節があります。「何事も為さないでいるのに、すべてのことを為している」のは誰かといえば、民衆ではなく統治者を指しています。
 


つまり老子の思想は、統治者の"過剰な社会統制"を戒めるものだ。現代日本の"緊急事態宣言"とは真逆の考えである。

それが典型的に現れたのは、劉邦が関中(秦の故地)に突入した時の最初の政治だ。以下は司馬遼太郎の「項羽と劉邦」(1979)よりである。

 

 

 

 


かれは関中をおさえた翌月、すべての地方の父老たちをよびあつめ、

「秦の法は、ことごとく撤廃する」と、宣言した。さらに、

「法は、三章とする。すなわち人を殺す者は死刑、人を傷つける者、あるいは人の物を盗む者は、それぞれ適当な刑に処する。それだけじゃ」

といった。掠奪の禁止と右の秦法の撤廃と法の簡素化ほど劉邦の関中における人気を高めたものはなかった。
 


 今風によればポピュリズムでしょうね。だが劉邦の参謀:張良の献策によって施行されたこの政策は、それほど軽薄なものではない。ちなみに張良は、むろん老荘の徒である。

 この時の劉邦の関中支配は長く続かなかった。このあと有名な「鴻門の会」があり、劉邦は一旦失脚する。そのあと彼は項羽との死闘に勝ち、中華全土の統治者になる。だがその後は、「法三章」の約束は捨てた。老子が理想とした「小国寡民」の状況でない限り、その約束を貫くのは無理なのである。

 韓非子に始まる法家思想は、一見老荘思想とは真逆に見える。だが実はルーツにおいて交錯する。その事情を司馬遼太郎は、以下のように記している。

 

 

 

 


韓非子は、このように血縁、地縁の調整の上に辛うじて成立している君主権ではその働きが小さく、いざというときには命令権も指揮権もすみずみまでとどきにくい、という基本的な疑問の上から、法をもって単純明快に世を治めるという法家の思想を築いた。一方においてかれの思想をいやが上にも透明にする働きをしているのは、哲学的にも政治的にも一種の虚無思想といえる老子の思想であった。老子は政治において無為の道を説いたが、韓非子はいわば老子を政治学に仕立て上げたといえなくはない。が、この思想は、実験室にとどまるという点もある。老子も韓非子も、その思想の前提として民はあくまでも無智無欲でなければならぬ、というところに置いており、多分に自然物に化ってしまうはずの民は、君主に対し、その存在や統治を重さとして感じない。また重さとして民に感じさせる政治は不可である、とするあたり、思想としてもっとも魅力に富む部分だが、しかし底のない壺のように現実から遊離しているともいえる。
(中略)
政は、その大臣である法家学者の李斯をつかってある程度まで韓非子の思想を秦帝国において果断に実行した、といえる。もっとも始皇帝は民を自然物と決めつけすぎ、それを容赦なく労役にこきつかい、あげくのはてにその死後、自然物どもが大反乱をおこす結果をまねいた。
 


 私は老子も荘子も拾い読みしかしていない。だが一種の虚無思想であるというのは、何となく気づいていた。換言すればそれは、「往生際が良い」ということにもなるだろう。あるいは「地位や名声に執着しない」とか。司馬遼太郎はそのことを、張良の盟友:陳平の出処進退に託して以下のように語る。

 

 

 

 


(これでしまいか)

陳平は、使者に接したとき、おもった。手を洗って滴りを切るように、あっさり現在の地位についての執着心をすてた。このあたり、老荘を学んだ功というものかもしれない。
 


 この陳平の潔さは、結果オーライだった。その詳細は司馬遼太郎のこの著か、あるいは(その原典たる)司馬遷の「史記」を参照して欲しい。

 さて、老子思想の中で最も有名な「小国寡民」のこと。司馬遼太郎はそれを「胡蝶の夢」(1979)で紹介しているが、論評はしなかった。中島隆博は以下のように評している。

 

 

 

 


「小国寡民」は小さい国に少ない民という意味。国の規模を小さくして、人数も抑え、労働効率を上げる道具や便利な乗り物があっても使わない。人々は文字を使う代わりに結縄という原始的な伝達手段を復活させ、自国の生活に満足し、老いて死ぬまで隣国の人と行き来することはない。欲望を減らして無欲や無為に至れば、悪を避けて善を実現できるという考えの下にユートピアを提示しています。今の視点で見るとテクノロジーを否定して国民の移動の自由を制限するディストピアです。
 


 なるほど。確かにそうだな。私は松久寛(元京都大学工学部教授)が主宰する縮小社会研究会に何処となくいかがわしさを感じていたが、それはこういうことなのだな。 

 中島隆博は小国寡民について、更に以下のように評する。

 

 

 

 


実際は「老子」の時代には交通が発達し、人々は諸国を往来できました。"いまここ"と異なる世界があることを想像できるような時代だったからこそ、道家を含めて諸子百家と称される多様な学派が同時発生的に出現した。ただ、民衆に横のつながりができることは統治者にとって脅威になります。このテキストには、再び封鎖された共同体に戻したいという欲望が反映されています。
 


 斯様な中島隆博の語りは、日本国の現在状況を意識してのもののように思える。統治者が市民を巻き込んで推進している"封鎖"の状況は、まさしく「小国寡民への道」なのだ。その先にはディストピアが有ると、思えなくもない。

 ただそれは一足飛びではないだろう。とりあえず、疫病はまもなく終息すると思う。緊急事態宣言で、いくつか早まることはあるかもしれない。対照実験が出来ないので、本当にそうかどうかは分かりませんけどね。問題はその後だ。

 統治者は「緊急事態宣言を出さなかったら、とんでもない事になっていた」と、過大に宣伝するのではないか?。そして壊れた経済の修復はしない。困窮人民はむろん切り捨てられる。以後、ことある度に宣言が出される。その度に経済はますます壊れ、人口が減少する。反比例的に統治者の力はますます強まる。そして、老子が夢想したのとは違う「統治者の権力が極めて大の"小国寡民"」が実現するのだ。という私の予知が外れることを、むろん願いはする。

 以下は"文学"のこと。トマス・モアの「ユートピア」(1516)、サミュエル・バトラーの「エレホン」(1872)、芥川竜之介の「河童」(1927)、ジョージ・オーウェルの「アニマルファーム」(1945)&「1984」(1949)等々…いずれもユートピアに非ずのディストピア小説だ。そしてそれを著した作家達は、その後の人生が悲惨である。モアは(19年後にだが)主君ヘンリー8世に刑殺された。芥川は「河童」を出した年に自殺し、オーウェルは「1984」刊行の翌年に病死した。バトラーは「エレホン」刊行後に30年生きたが、作家としての名声を得ることは出来なかった。そして最近は、ディストピア小説を書く者はあまりいない。

 最後に江戸時代の幕藩体制のこと。その時代の後期は"小国寡民"的でありつつも、諸国往来はある程度可能だった。そして1800年代初期の文化・文政時代以降は、経済がかなり発達した。ユートピアとは言えないまでも、ディストピアではないだろう。だがその状況は長くは続かなかった。同じ世紀の後半には、幕藩体制は壊れるのである。そして新たに出現した体制は…ディストピアとは言えないまでも、ユートピアとは程遠いものだった。そしてやがて、海外侵略を開始する。社会の縮小と拡大は、落とし所が難しい。

 

 

 

 


 

【このブログの筆者・渡辺茂樹が顧問をするアスワットのHP】

 

 

アスワットHPバナー大