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我が母校京都大学最早無し今其処在るは残骸なりき

古のマドンナ達が甦る人生の末夢走馬灯

   私は1967年4月に京都大学農学部に入学し、3年目に"1969"を体験した。そののち留年とプーを経て、1975年に同大学の理学部大学院(動物学専攻)に入学する。其処で博士後期課程まで進学するが、博士の学位は得ることなく京の地を去った。それが何年のことかは良く覚えていない。ただ、「京都にはおよそ20年間住んだ」というのが自身の認識である。

   その20年間の私の人生は「暗かった」。私が自身を「科学者のはしくれ」の思えるようになったのは、京都を出てからだ。その暗黒の20年間に私の心を支えたのは、周辺にいた京大女子の存在である。その縁は「袖擦りあう」程でしかない。でも彼女らが「存在する」だけで、私の心は癒やされた。その後の私の転機は(本ブログの第78ー81話で述べた)聖母女学院の6年間である。だがその前に京大女子による癒やしが無かったら、私の心はとっくに押し潰されていただろう。

  最近つくづく思うのは…「女は男無しでも生きられるが、男は女無しでは生きられない」ということだ。少なくとも良い人生は生きられぬ。配偶という形式は不可欠ではない。女性は其処に存在するだけでよい。野郎所帯では心が荒むのだ。

   やや唐突な例だが…最近先進国で女性兵士を増やしているのは、それを考慮してのことだと私は思う。思春期を女子校で送るのは問題無いが、男子校で過ごすのは考えものである。ちなみに私は小学生時に父親から開成中学受験を勧められだが、「男ばかりの学校なんて嫌だ」と断固拒否した。

  ま、それはさておき(異論もあるでしょう)…同じ大学に20年間もいると、付き合いの幅が広がるな。京大には私が在籍した農と理の他に、工、医、薬、法、経、文、教の7つの学部がある。 私はこの中で、経済学部以外の8つの学部の女子学生と袖を擦り合った。むろんそれは象徴的な意味であり、実際にそうした訳ではない。

   量質共に最も存在感が大だったのは、農と理の女子だ。だが彼女らのことは此処では述べない。その他の学部で袖擦り合った女子の数は工1、医3、薬many、法1、文3、教1である。ただ遥かに後年に、新設の総合人間科学部(前身は教養部)の女子Tを知る。彼女のことは本ブログ(の第72話)で述べたので、此処では省略する。農・理以外で最も記憶が濃いのは法学部のNだが、彼女のことも本ブログ(の第55話)で述べたので、やはり此処では記さない。

   工女子のYは、私が知った時は実は工学部生ではなかった。農学部の大学院に転入していたからだ。後に滋賀県知事になった嘉田由紀子と同じ研究室である。シャープな頭脳の女子だったが、嘉田と違ってその後に「世に出る」ことは無かった。本人はそれを望みもしなかったかもしれないが、少しく残念である。

   医女子の3人は、私が教養部非常勤講師として生物学実験を担当した時に1回生(他大学での1年生)だった。京大の医学部といえば、東大理Ⅲの次にランクされる高偏差値の難関である。だからみな相当な秀才なのだろうけど…その雰囲気は感じさせず、そして謙虚だった。私が男子学生某に「医者なんて3Kだろ。"基礎"に進んで研究者を目指したら?」と(言わずもがなのことを)言ったら、彼は「自信無いです」と返答した。女子3人も同じ気分のようだった。

   3人の医女子のひとりUは、元は動物学者志望だった。某公立大学で、ニホンザルの社会生態を調査していたという。だが研究者としてやっていく自信が持てずに大学院進学を断念し、そして医師になるべく再受験したとのことだ。別の医女子Mは、当時未だ動物学研究室に居た私のもとに遊びに来たことがある。後になって気づいたのだが…もしか彼女は、理学部に転入したかったのかもしれない。最難関の医からそれより下の理への転学部はフリーパスである。そのようにはっきり言明すれば「相談に乗った」のだが、このことは私の憶測でしかない。そしていま、彼女が何処でどうしているかは知らない。でもたぶん、何処かで女医をやっているのだろう。

   薬学部は医学部よりも女子が多い。だが私が生物学実験を担当した薬女子は(記憶している者もいるが)、印象がやや薄い。数が多いぶん、私の関心が散漫になったのだろう。薬女子で最も印象大なのは、授業を担当しなかったSである。ただ、彼女がJKの時には(その高校の非常勤として)教えた。法女子のNと同じ高校で、同期だ。Nと違って、JK時代のSとは私は殆ど会話していない。

   そのSは訳あって大学を中退し、その後は消息不明だった。それが突然…「いま、東京で区会議員をやっている」ことがわかった。写真入りのブログを出している。齢は今では60に近いが、昔と変わらぬ美貌だった。嬉しくなってそのブログに「お久しぶりです」と記したが、反応は無かった。ま、仕方ない。それはよしとして…ブログの文章内容がいまいちで、そしてやや「苛立っている」感じであるのが気になった。でも、ま…いまこういう時代故、仕方ないかもしれない。

  文学部の女子とは、3人と袖を擦り合った。その中で最も多く会話したのはIである。彼女はそのとき大学院生で、やがて出身研究室の助手(現在語法では助教)になる。その後のことは知らない。おそらく教授にはなっていないだろう。上野千鶴子のようにマスコミに名が露出することもない。「能力は高かった」と思うだけに、残念である。

   そして教育学部のA。彼女とは個人的には殆ど話をしていないのだが、かなり強い印象を私に残している。その年の教育実習を巡ってちょっとしたトラブルがあり、実習生達が(学部の枠を越えて)担当教授連とやり合った。そのとき最も激しく発言し、目立っていたのがAだったのだ。

  彼女のことは所属学部と、大阪府立北野高校の出であることしか知らない。浪人をしていなければ私より2つ年下で、「東大入試が無かった年に入学」の世代だ。なのに私と同じ年に教育実習生であったのは、私が留年をしていたからである。

   私はそのときAとポリシーを共有していたから、本来は「共に闘う」べき立場だった。だがその頃の私は(今と違って)無口だったから、殆ど発言していない。つまり彼女の役には立っていない。その私には、激しく言論する彼女がカッコ良かった。Aはエキセントリックだが凛々しく、そして美しかった。ただあの性格では…「その後に良い人生を生きられただろうか?」と、いま思う。

   法女子Nのことが長いこと記憶の闇に封印されて来たように、Aのことも表向きは忘れていた。Nの封印が解けたのは、長谷部泰彦の著書を読んだことが契機である。Aの場合は、TVドラマ「明日の約束」を見たことが引金だ。そのヒロインでスクールカウンセラーの藍沢日向(あいざわ・ひなた)に、甦ったAの面影が重なった。井上真央が演ずる日向は、彼女のように激しい性格ではない。でも内に秘めた正義感は、共通すると思う。

   一瞬の火花のような出会いであり…そして長いこと記憶の闇に封印して来たAだが、存外その後の私に大きな影響を与えたかもしれない。その後にあちこちの高校で非常勤講師業を始めた私は、管理職とやり合うことが多かった。聖母女学院のJKには、「せんせいはこの学校の"色"に全く染まらない人ね」と誉められた。斯様な私の性格は、おそらく「"1969"の体験」だけで形成されたものではない。封印下のAの存在が、大きかったように思うのである。

  而して…私が京都を離れてから30年の歳月が流れ、我が母校に昔日の面影は無い。ファシスト総長山極寿一をトップに据えた現体制が強権を振るい、学生の側はそれを「されている」という自覚すら無いように見える。だが未だ少数は、正義の心を失っていない者がいると信じたい。そしてその比率は女子の方が多いのではないかというのが、私の仮説だ。

   忘れられた(けれども忘れ難い)思想家松田道雄は、「男が女をばかにするのは、小さいときに家庭でしつけられただけではありません。有能な女を見る機会がなかったからです」と言う。その意味では私は幸運だった。そして松田がその著(岩波新書)のタイトルで述べたように、「私は女性にしか期待しない」。松田が言うように、「社会は有能な女を、ふさわしい地位につけていません」という現実はある。私が知る京大女子たちも、多くがその現実から脱却出来なかった(と思う)。けれども今後多少の変革が為されれば、この国に未だ未来はある。



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