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    添付写真は京都九条山(東山山系を横断する旧東海道の峠)の、曼珠沙華である。毎年9月になると開花し、そして約1ヶ月間咲き誇った後に散る。その妖しい美しさは、JK(女子高生)に似てなくもない。花が散っても根は枯れずで、翌年また新たに開することもだ。「年々歳々ひと同じからず」にてである。

   ところで私は自称テレパスだ。他人の心が、かなり読める(と自分では思っている)。だがむろん、それは火田七瀬(筒井康隆「七瀬ふたたび」のヒロイン)のような天性の遺伝的能力ではない。幼少時にはそのような能力は無かった。その自信を持つに至ったのは、不惑の年になってJKと多く付き合うようになってからだ。

  付き合うといっても、世間的な「交際」とは違う。Teacher(非常勤)とStudentsの一線は、決して越えなかった。でも、私ほど「多くのJKとの、短くて淡いが、真摯な付き合い」を経験したTeacherは、この国にそれほど多くないのではないか?。私はそのことを誇りに思う。

  その付き合いの過程で私は、JKに「好かれなくてもよいが、嫌われたくない」と思った。そして、彼女らの心を読むことを努めた。つまり私のテレパス能力は、JKに鍛えられたのだ。

  未熟だった20代の半ばに、相手の心を読み損なって「失敗した」ことがトラウマとしてある。テレパス(自称)になった今もなお、若い女性の心を読むのはやや苦手だ。でも、世間の並の男性よりは遥かにその能力があると自負する。


   N女子大付属高校のNと、S女学院高校のEのことは、以前にブログで回顧した(第41話と55話)。S女学院ではその他に、20人程の記憶が鮮明である。あるいはS女子高校のT、府立S高校定時制のC…等々は、必ずしも私が「強く魅せられた」訳ではない。そのように確実に言いうるのは、NとEだけかもしれない(だからブログに記した)。だがその他のJKの記憶も今なお濃く、そして私の「性格を変えた」と言いうる。彼女らが、私という人間の「価値を認めてくれた」からだ。 以来私はいくらか自分に自信が持てるようになったのである。


   「ひとは己を知る者のためになら死ねる」と、誰かが言った。それになぞらえるのは大仰だな(死にゃあしません)。でも、それと根が通じる部分がいくらか有ったように思う。

  若年の頃の私は自信というものがおよそ無く、自虐的だったのだ。異性関係について言えば、「もてた」という自覚が無い。回顧すれば必ずしもそうでもなかったのだが、当時はそう思っていた。不惑の年を越えてから後に、「あれ?、俺って結構女生徒に人気あるじゃん」と思うに至る。だがむろん、それは性的魅力においてではない。私は、それと錯覚するような馬鹿じゃない。私の人気は、「凡庸ではないTeacher」としての希少性においてだろう。比較して、専任のTeacher達は「あまりにも凡庸」なのだ。

   それ故に、専任達の嫉妬も受けた。S女学院でのことだが、教育実習に来た卒業生のF(つまり元JK)が私に関心を持ち、しきりと話かけて来た。私も知的な彼女とは話が合った。ある日あるとき理科非常勤控室で彼女と話し込んでいたら、突然に化学の専任女教師が現れた。そして「あんた、こんな所で何してるの!」とFをどやしつけたのだ。彼女は憮然として部屋を出た。私は「こんな所とは御挨拶だな」と思ったが、何も言わなかった。女教師は私には言葉をかけず、すぐに立ち去った。その後Fとはしばらく「文通」をしたが、その関係はいつしか絶えた。

  忘れじのS女学院だが、嫌なことも無かった訳ではない。でもその対象のJK=Aを憎んではいない。彼女のことを想うと、今なお心が痛む。

   ある日ある時、無記名の封書が送られて来た。その中には私が授業中に配布した「韓国紀行」のプリントが入れてあった。細かく切り刻んでだ。剃刀の刃が同封されていたことは無かったが、私はゾッとした。そしてそのことを生徒部に報告し、調査の結果、Aの所業であることが判明したのである。

  おそらく筆跡鑑定のようなことが行われたのだろう。でも、それだけでは個人特定は難しい。チクリのようなことがあったのではあるまいか?。嫌な話だが、仕方あるまい。調査をせずに(プリント切り刻み送付のことを)「無いことにする」のは良くない。彼女はたぶん担任からこっぴどく叱られて、それでこの件は一応収まった。だがそのことで、私はS女学院を辞めざるを得なかった。年度途中ではないので(そして非常勤は一年契約だから)、形式上はクビではない。「再契約せず」ではあったけれどもである。

  そのことで私は彼女を恨んだりはしない。そもそも私がクビになった理由は、それだけではなかったのだ。ただ、あとで「しまった!」と悔やんだ。それは、事件発覚後にAと「話し合い」をしなかったことだ。彼女からの詫びのことばは無かったが、それはどうとも思わない。でも、このことを「無かったことにする」のは、本人のためにならないのではないか?。その思いは暫し私を苦しめた。だが私は何もしなかった。

   私がS女学院を辞めた後も、Aは何度も手紙をくれた。卒業して、某外国語大学に進学して後もだ。その手紙は特にどうともない近況報告で、狂気のようなものは全く読み取れなかった。だが私は返事は殆ど出さなかった。僅かにだが、怖かったのである。そしてそれから20年の歳月が流れた。彼女の近況は、全くわからない。

   Aは私がS女学院に在籍した6年間の最後の年に高1だったのだが、最初の年に高1だったのがKである。成績が良く運動神経抜群の「お嬢様」であるKは、私と特に親しくはなかった。だがある日ある時(どういう状況だったかは忘れたが)、彼女が発した質問を鮮明に記憶する。それは、「せんせい、電磁波って、つまり何なの?」というものだ。私はドキリとした。そのことは以前より気になっていて、でも授業ではスルーしていたことだったからだ。その場は懸命に考えて解説し、後日に改めて郵便で解説を試みた。だが彼女は「成程」と納得した様子は無く、私自身も「誤魔化した」の感が拭えなかった。

   あれから20年余の歳月が流れ、JKだったKもはや不惑齢間近である。神戸大学の国際専攻に進学した彼女の名がマスコミで報道されないかと期待したことがある。だが今のところ、その気配は無い。

  JもS女学院のJKで、やはりさほど多くはことばを交わしていない。彼女も、とても頭が良い少女だった。その次に登場するSもそうなのだが、少し気合いを入れて受験勉強すれば楽々に京大に行けただろ。だが当時のS女学院は「欲の無い」JKが多く、私が在籍した6年間で京大に進んだ者は一人もいない。

   Jは理系進学希望で、そして数学が良く出来た。だが「学校で学ぶ数学はつまらない」とこぼしていた。で、私はその頃出たばかりの足立恒雄の「無限の果てに何があるか」を推薦した。でも私は、推薦図書を誤ったかもしれない。それより遠山啓の「無限と連続」か、あるいは森毅の著書を選ぶべきだったろう。

   Sは文系進学希望だったが、生物のテストも良く出来た。何故か「特進」のクラスではなかったが、その所属の者を押しのけて常に生物のテスト成績はトップだった。演劇部の所属で、文化祭の演劇では(3年間を通して)常に主役を張った。私はわりと親しかったが、心の奥をあまり見せないJKだったように記憶する。そして慶応大学の史学科に推薦で進学する。歴史学者として名を成すことを期待したが、残念ながらそうならなかったようである。Sには、そういう「欲」が無かったのだろう。

   Mは所謂優等生ではなかったが、劣等生でもない。ただ、不登校だった。S女学院にはやんちゃな生徒は殆どおらず、いじめのようなものはまず無かったから、生徒間の人間関係が理由ではないだろう。専任の誰かとの折り合いが悪かったのではないか。

   4月以来一度も出席しなかったMが、2学期半ばに私の授業に突然現れた。私は、「初めまして」と(ことばには出さずに)思っただけだったが、彼女は「あの先生の授業は面白い」と目を輝かせて語ったそうである。そのことを私は、専任では私の唯一の味方である美術のTeacherに聞いた。Mは美術部の所属で、このTeacher(女性)は彼女にとって唯一心を許せるひとだったようだ。

   教師冥利に尽きる話である。だが私はそのことを特に誇りには思わず、以後も自然体での授業を続けた。Mは私の授業のみならず、他の授業にも出て来るようになった。そして無事卒業し、美術系大学に進学した。以後しばらく年賀状のやりとりがあったが、3年とは続かずに絶えた。

   Uは不登校ではなかったが、それになりかけていた。理由は「学校がつまらない」であったようだ。彼女に対して如何なる処方をしたかは忘れたが、私はやはりその気分を変えるのに貢献したように記憶する。つまらない居場所でも、本人の気の持ちようでは面白く出来ることもあるのだ。

   卒業後に手紙をくれたUを、私は当時勤めていた京都競馬場の仕事を紹介した。其処では、やはり既に卒業していたRと偶然再会していた。私は裏方の厩舎勤務だったが、Rは客に接するコンパニオンだった。むろん本業はJD(女子大生)で、コンパニオンはアルバイトである。で、Uは何処でバイトしたかというと、幹部職が勤めるオフィスだ。裏方仕事の己と比較して、「S女学院は美人校だもんな」と認識した次第である。

   ただ、裏方の方が精神的には気楽である。美貌の故に表の場に抜擢されたUとRには、少なからぬストレスがかかっていたようだ。私は一度(UとRと)飲みに行ったことがある。その時二人は、「世の男というものは…」と慨嘆していた。お嬢様らしからぬやや蓮っ葉な口調でだ。具体的には、何かというと「触りたがる」らしい。「全く困ったもんだ」と、私は話を合わせた。

   ところで最近、遺伝学会が「優性・劣性の語の使用を止めることにした」と、マスコミが報道した。代わりに「顕性・潜性」を用いるのだという。私は「なにをいまさら」と思った。そのことを私は学生時代に気づき、教育の場で実践して来たからだ。遺伝の授業を始める前には必ず「私は顕性・潜性と言います」と述べた。東京農業大学に進学したYは、おそらくそのことを今も記憶しているだろう。

    JDになったYから、「スキーのジャンプを始めました」という手紙が来たことがある。その実践は高梨沙羅に遥かに先行する。だから私は沙羅の名がマスコミで報道される度に、Yのことを思い出す。だがYの名は、マスコミで報道されることは一度も無かった。

   農大の4年になったYからは、「卒研でニホンイタチの生態調査をすることになりました」という手紙が来た。フィールドは利根川流域だという。私は、「えーっ!」と思った。利根川流域の千葉県我孫子は私の故郷であり、私の叔母が今なお住む地だからだ。むろん彼女は(私の授業を聴いたから)ニホンイタチとシベリアイタチの違いを知っている。前者は「雌が異様に小さい」こともだ。私は「指導教員の手前はあるが、一度行かにゃならんな」と思い、彼女にそのことを伝えた。

   ところがところが…程なくして「あれはやめました」という手紙が来た。Yの指導教員でネズミの研究者である(らしい)北原なにがしが、セクハラ事件を起こして解雇されてしまったという。「何となあ」と思ったが、毒牙にかかったのが彼女でないと知ってホッとした。

   急遽彼女の指導を担当することになった吉行瑞子は、「生態学がわからない」ひとだ。彼女はたぶん私を知っていて、そして私に反感を持っている。以前、科博所蔵のニホンイタチの標本を「見せて下さい」と頼み、拒否されたことがあるからだ。で、吉行はたぶん「イタチなんかつまらないから止めなさい」と言ったのだろう。そうに違いない。

   ただ私としては、お嬢様育ちのYが利根川河川敷でフィールドワークをすることに一抹の不安があった。DD(男子大生)の護衛があると良いのだが、それは難しいだろう。だから「フィールドは止めます」と知らされ、少しくホッとした気分も無いではなかった。そしてYは吉行の指導で「アメリカ産のカモの比較形態」をテーマに卒研を行い、卒業した。その論文を私は見ていない。卒業後のYから手紙が来ることは、もはや無かった。

   基本的にお嬢様学校であるS女学院と違い、その前に勤めたS女子高校はやんちゃなJKが多かった。そして授業中私語に辟易した。当然JK達との関係は険悪だったが、唯一人私の理解者がいた。この学校には珍しく利発なJKのTだ。授業中に騒ぎ立てるクラスメートをたしなめてくれた彼女との交遊(文通のみ)は、長く続いた。彼女が大学を出て結婚し、子どもが出来た後もだ。そのTとの文書交遊も、いつしか絶えた。

   この稿のしまいはCである。彼女は府立S高校定時制のJKだった。その高校は偏差値が高い学校ではなかったが、Cは極めて頭の回転が良く、「掃き溜めの鶴」的にクレバーな少女だ。そしてルックスは、掛値なしの美少女だった。

   私は美少女が好きだが、それ故の依怙贔屓はしない。彼女とは担当教科(化学)の内容のみ会話した。質問をよくするJKだったので、会話はかなり頻繁だった。だがそのことで私は、彼女のクラスメートの嫉妬を買ってしまったのだ。

   ある日ある時授業中にCの質問に応対していたら、別のJKが「えこひいき!」と突然大声で叫んだ。以前から腹に据えかねていたような語調だった。私は当惑した。Cも「何でよ!」と反論した。何たる理不尽か。けれども私は「やばい」と思った。以前某女子校の特進クラスにいたCはそこで酷いいじめに逢い、耐えかねて今の学校に転校して来たと、専任から知らされていたからである。

   漸く安住の地を見つけたCが、私のせいで再びいじめられるようなことになったら立つ瀬が無い。私は理不尽発言をしたJKに反論せず、チャイムが鳴った後に無言で教室を出た。以後Cが私に質問をすることはなくなり、私との対話は完全に絶えた。

   美しくて賢いCは、おそらくクラスのアイドルだったのだろう。DK(男子高生)にとっても憧れの対象だったと思う。その憧れの君が、私のようなやさぐれと(教科内容限定とはいえ)「親しく会話する」のが許せなかったに違いない。

   その雰囲気は、職員室においても認められた。専任にとってもCは「宝」だったようである。そして、私に「嫉妬」していることも感じられた。Cは私を「凡庸でない」と認知した。凡庸たる専任達には、その私が憎らしかったのだろう。私がその時あったことを職員室で述べても、専任は「おまえが悪い」的な反応を示したのだ。

   以後、私にとっての「忘れじのJK」は現れなかった。今後は教壇に立つこともないだろう。実は先日(8月半ば)、京都市内の某女子校から非常勤講師の打診があった。履歴書を出し、面接を受けたが、採用されなかった。履歴書に記した前任校に問い合わせをし、「依怙贔屓をするけしからん奴」という噂を得たのじゃないかと思う。

   以前別稿に示した短歌を再び記す。

此の世ではもう会うことの無い故に君は10代あの頃のまま

美しき花に棘無し毒も無し可憐に咲きし地獄花には


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