
修学院離宮へ、今回上手く予約が取れたので行って来ました。
後水尾上皇の指示で1653年~1655年に造営された離宮(別荘)で、
上・中・下3つの離宮から構成されています。
自然と建物との調和が見事で、一度訪れてみたいと思っていました。

受付を済ませ休憩所へ移動する間の小径に、
いきなり目を奪われてしまいました。
これから参観するコースに、おのずと期待が膨らみます。

時間とともに、宮内庁職員の案内役で見学が始まりました。
まずは、下離宮から参観です。
柿葺きの屋根と透かし彫りのある御幸門、
ここをくぐって下離宮に入ります。

花菱の透かし彫りです。

下離宮・寿月観の庭園です。
袖形灯籠と呼ばれる、変わった形の灯籠がありました。

池を渡り、緩やかな階段を登っていきます。

柿葺き入母屋数寄屋風造りの寿月観です。
上離宮への拠点である寿月観は、3つの部屋で構成されてます。
各部屋は庭園を望むよう配置されていて、
御所から来た上皇が休憩する場所だったようです。

後水尾上皇宸筆の額と上段を備える、一の間です。
床の間や、飾り棚が見えます。


奥の襖4枚には、虎渓三笑の絵が描かれていました。

寿月観の前庭です。
こちらが、朝鮮灯籠でしょうか。

小さな滝もあります。
奥の石は、富士山を見立てているそうです。

寿月観の裏へまわり東門を出ると、視界が一気に広がりました。
左側手前の山の向こうに、比叡山が見えます。
のどかな景色を堪能した後、松並木を通って中離宮へ向かいます。

各離宮を結ぶ松並木の道は、もとはあぜ道だったそうですが、
明治天皇の行幸に際して拡張整備し、松を植裁したそうです。
馬車が通るので、御馬車通りとも呼ばれています。


松並木の周囲は、のどかな水田畑地が広がります。
もとは地元の方たちの所有でしたが、景観保持のため
昭和39年に国が買い上げて付属農地としました。
その後、地元農家に管理委託をお願いしているそうです。
参観している横を軽トラが走っていたり、農作業をしてる姿は、
異空間に飛び込んだような不思議な感じがします。
ちなみに、松並木の道と水田畑地との間に柵はありません。
コースを逸れて近くに寄れそうですが、そうはいきません。
参観者の列の最後に、皇宮警察の方が着いてまわります。


中離宮の出入口です。

階段を登って行きます。


柿葺き屋根の表門が見えてきました。

中離宮の庭園です。

苔が綺麗です。

中離宮・楽只軒(1668年頃築)です。
後水尾上皇第八皇女、光子内親王のために建てられた山荘です。
上皇が崩御すると、光子内親王は落飾してここを林丘寺としました。
明治18年、林丘寺門跡から境内の半分が宮内省に返還されたので、
離宮に編入して中離宮としたそうです。

1682年、東福門院の女院御所から移築された、中離宮・客殿です。
客殿は、楽只軒の東南の高い場所に階段でつながれています。
入母屋造り木賊葺き屋根を持ち、板戸を建て、
濡れ縁をまわして、一部に「網干の欄干」と呼ばれる
低い手摺を備えています。

一間半の飾り棚は、互い違いの棚が
霞がたなびいている様に見える事から「霞棚」と呼ばれ、
桂離宮の「桂棚」、三宝院の「醍醐棚」とともに、
『天下の三棚』と呼ばれているそうです。

杉戸襖は「祇園祭の鉾」の絵が描かれていて、
筆者は狩野敦信と言われています。

こちらの鯉は筆者が不明ですが、後から描き足された網は
円山応挙の筆と伝えられているそうです。
言い伝えによると、鯉が夜な夜な絵から抜け出して
庭の池で泳ぐため網を描き足したのだとか。

襖絵は、狩野永敬の四季絵です。

客殿の裏へとまわります。


「網干の欄干」と呼ばれる低い手摺の向こうは、
楽只軒が続きます。

楽只軒の、二の間です。
奥の一の間とともに、かなり簡素な作りですね。
襖絵は狩野探信で、吉野の桜や龍田川の紅葉が描かれています。

二の間では囲炉裏を炊いていたので、
壁や特に天井はすすで真っ黒でした。
縁側の天井と比べたら、一目瞭然ですね。

雨樋は、竹を半分に割って中の節を取ったものです。
竪樋も同じく、竹を使っていました。
自然の素材を生かしていて、いかにも風流ですね。

中離宮最初の出入口へと戻ってきました。
隣に、林丘寺が見えます。

松並木の道を引き返して、いよいよ上離宮へと向かいます。
