中京区 行願寺(革堂)

行願寺は、寛弘元(1004)年、行円上人が一条北辺堂を復興して
「行願寺」と名付けたのが始まりといわれています。
西国三十三カ所第19番札所であり
西国三十三所で唯一の尼寺です。
一千年の歴史をもつお寺ですが
創建当時は一条通りにありました。
戦乱や火災でいくたびも焼け場所を替えつつも
人々の熱烈な信仰によってつねに都の中心部に再建されます。
天正18年(1590年)には豊臣秀吉による都市計画のため、
寺町荒神口(上京区、京都御苑東側)に移転。
さらに宝永5年(1708年)の大火の後、
寺町荒神口の旧地からやや南に下がった現在地に移転しました。
行願寺は別名「革堂(こうどう)」とも呼ばれています。
それは創建した行円上人が仏門に入る前は狩猟を業としていましたが、
ある時、山中で雌鹿を射止めたところ、その傷口から小鹿が誕生しました。
鹿は血まみれの小鹿の体を舐め愛おしんでいましたが、そのうち力尽きて死んでしまいました。
その様子を見ていた行円上人は今までの殺生を悔い仏門に入ります。
その死んだ雌鹿の革(皮)を行円上人が常に身につけていたことから、
「皮聖」「皮聖人」と呼ばれ、そのことから行願寺を「革堂」と呼ぶようになったそうです。
行円上人が肌身離さずつけていたとされる雌鹿の革衣は、現在も行願寺の「宝物館」で大切に保管されています。
革衣が安置されている宝物館には、「幽霊絵馬」も所蔵されています。
そしてこの絵馬にはある哀しい話が伝わっています。
その昔、ふみという若い娘が質屋に奉公人として働いていました。
そこの主人、八左衛門の子守をしていましたが
ちかくの行願寺まで良く連れて行ったので
自然とお堂から聞こえてくる御詠歌を覚え
子どもに教えていました。
しかし法華信者の八左衛門はそれが気に入らず
ある時、怒りに狂い、彼女を殺してしまいました。
そして家の庭に埋め、
彼女の両親には男と失踪したと嘘をつきます。
急遽出てきた両親は、革堂の千手観音像に娘の無事を祈ります。
するとそこにふみの亡霊が現れ、
「私は八左衛門に殺され庭に埋められています、手鏡を一緒に埋めてください」と告げました。
それは奉公に出る際に母親からもらった大切な手鏡のことです。
事実を知った両親は娘を不憫に思い、ふみの子守りをしている姿を絵馬に描き、
手鏡と一緒にふみが好きだった革堂に奉納したのです。
また悪行がバレた八左衛門は捕まって死罪になったそうです。
この絵馬は普段は見ることが出来ませんが
8月22日~24日の3日間に行われる幽霊絵馬供養の際には雌鹿の革衣とともに拝観することができます。
革堂の本堂は1815年に再建されたものです。
内部には、行円上人(ぎょうえんしょうにん)が造ったと伝わる
本尊の千手観音像が祀られています。
ただ現在、本尊の千手観音像は秘仏扱いで、
公開されるのはは毎年1月17・18日の初観音の日だけとなっています。
しかしこの秘仏の千手観音像ですが
本当に行円上人が作った物なら
年代的にも文化財に指定されてもおかしくないと思います。
この日は境内の会館で落語会があったり
他にも行事のある日だったみたいで
結構人が出入りしていました。






