私とロックとの出会い

トレヴァー・ラビン(Trevor Rabin)


南アフリカ出身のロック・ギタリスト


最初、母国の南アフリカでアイドル色の強いハードロック・バンドのラビット(Rabbitt)に在籍していました。
ラビットではリーダーを勤め
ハードロックとはいえポップ色が濃く
またトレヴァー・ラビンだけでなく他のメンバーのルックスも良かったため
アイドルバンドとして人気でした。

ただトレヴァーは元々コンポーザー、ギタリスト、そしてヴォーカリストとしての非凡な才能に恵まれていたためか
更に本格的な音楽活動をするために
ラビットを脱退します。
当時、南アフリカではアパルヘイトへの制裁という特殊な事情があり活動が制限されていたので
活動の拠点を英国に移し、1978年にクリサリス・レコードより発表したファースト・ソロ・アルバムが
「トレヴァー・ラビン(Trevor Rabin) 邦題・誘惑の貴公子」(笑)です。






このアルバムではドラムス以外のすべての楽器を自らこなす
マルチ・ミュージシャン振りを発揮しただけで無く
プロデュースまでも手がけるなど多彩な才能を見せました。

またトレヴァーのテクニカルなギターに加え
メロディアスなプログレ・ハード・ナンバー満載の名盤ですが
日本では「誘惑の貴公子」という笑える邦題が付けられたように
やはりルックスを全面に出してアイドルとして売り出されてしまいましたね(笑)


アルバムはスタジオでマルチ・ダビングを繰り返して制作され、
そのあたりの厚みのある音楽性は、
ある意味でクイーンやマイク・オールドフィールド、トッド・ラングレン等
マルチ・ダビングを得意とするミュージシャンとの共通点も多いです。

しかしアルバムの音楽性と邦題の不一致か
結果的にセールスは不調で、それ程話題にもなりませんでした。


トレヴァー・ラビンが脚光を浴びる事になったきっかけは
元イエスのベーシスト、クリス・スクワイアが作ろうとした
新しいバンド・シネマ(Cinema)の結成に
参加要請があったことでした。

トレヴァーは、その頃英国からアメリカへと移っていて
イエスのメンバー達の周辺で活動していたことで
彼らメンバーと交流があったようです。

そうしてシネマに参加することになりましたが
その後結局、イエスのボーカリストのジョン・アンダーソンが加入することに成り
シネマとしてでは無く新生イエスとして再出発します。


ただ以前のような大作主義のプログレバンドとしてでは無く、
時代に合ったポップなアルバムとして「ロンリー・ハート (90125)」 を発表。
そこからカットしたシングル・「ロンリー・ハート」が大ヒットし
イエス唯一の全米1位を獲得します。

この作品は昔からのイエスのファンには不評でしたが
商業的には大成功を収め
イエスのアルバムでは最も売れた作品となりました。

このアルバムが成功したのは
「ラジオ・スターの悲劇」のヒットで知られるバグルスのメンバーだった
トレヴァー・ホーンのプロデュースが大きいですが
曲の殆どはトレヴァー・ラビン(ややこしい)が作ったといってもよいでしょう。


「ロンリー・ハート (90125)」以降、発表したアルバム
「ビッグ・ジェネレイター (Big Generator) 」からはプロデュースも担当し
実質トレヴァー・ラビンがイエスの主導権を握りましたが
そのようなバンドの状態に不満を持った
ジョン・アンダーソンが脱退し
良く知られているように2つのイエス!が誕生することになります。


ただトレヴァー・ラビンも自身が中心となり制作し
1994年に発表したアルバム「トーク(Talk)」は
出来上がりには満足していたにも関わらず
セールス的には不振で
もうバンドでの仕事はやり遂げたと感じた
トレヴァー・ラビンは脱退してしまいます。
一説にはバンドの方向性に不満を持った
ジョン・アンダーソンによって解雇されたとも言われています。


その後、トレヴァー・ラビンはバンド活動は行わず
映画音楽家の道に転身し成功を収めたようで
『アルマゲドン』や『ディープ・ブルー』、
『タイタンズを忘れない』、『ナショナル・トレジャー』、『スネーク・フライト』、
『リベンジ・マッチ』等、数々の作品を手がけています。