拝殿には古い写真が飾ってありました。ヽ(*´∀`*)ノ
写真をみると昔ここは島であったように思えますねぇ~( ´~`)

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それでは参拝しましょう(‐人‐)パンパン

扁額も立派ですね~*。・+(人*´∀`)+・。*

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御本殿は板で覆われていました。( ̄~ ̄;)

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由緒書等説明板がありませんねぇ~キョロo(・ω・= ・ω・)oキョロ

おや?記念碑がありますよ~o(*゚∀゚*)oワクワク

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こちらは明治36年に建立された780年祭の記念石碑です.+:。 ヾ(◎´∀`◎)ノ 。:+.
しかし…………中途半端な感じがします(;・∀・)
もう20年待てば800年祭なのにねぇ~σ( ̄∇ ̄;)


由緒沿革はわかりませんが、八千戈神社ということは御祭神は八千戈命(やちほこのみこと)ではないかと推測されます。
武神として祀られているのでしょうか?σ(´・ε・`*)

八千戈命は大国主神の別名でもあるので国を造る神、五穀豊穣を祈願して祀られた可能性もありますね~*。・+(人*´∀`)+・。*

ここで久々の想古学(´∀`*)
石碑からすると創建は平安時代初期の保安四年(1123年)です(゜∇^d)!!

さて、その当時この地を治めていたのは厚東氏とも大内氏とも言われています。(´▽`;)ゞ
まさに境界の地です。( ´~`)

どちらが創建したかわかりませんが、武神である八千戈命を祀ったと考えれば筋は通ります。

が!
厚東氏も大内氏も滅亡しのちに毛利氏が来たことを考えれば五穀豊穣を願った事が想像出来ます。

そこで、私はこのような妄想をしました。ヽ(*>∇<)ノ
毛利さんが来るまでは武神の八千戈命を祭神とし、その後五穀豊穣の大国主神に神名を改めて現在に至った。

あくまで私のぶっ飛んだ妄想ですので、本気にしないで下さいねぇ~(ヾノ・∀・`)



かなり脱線しましたが本題に戻ります。m(_ _)mペコリ


記念碑の裏には石祠と庚申様がおられました。o(*゚∀゚*)oワクワク

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こちらの庚申様も道路拡張でこちらに来られたのでしょうね

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こちらの石祠には?σ(´・ε・`*)

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石がありますねぇ~( ´~`)
流れ恵比須様でしょうか?(゚∀゚*)
するとやはりここまで海が来ていたことになります。.゚+.(・∀・)゚+.゚

でもこの日は誰にも出会えず(T^T)ウルウル

調べてもこちらの図書館では資料がありませんでした(´・ω・`; )


こちらは元々御神木があった跡のようです。( ̄~ ̄;)ウーム

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拝殿の下には石鳥居の脚が置いてありました((゚□゚;))

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雨が落ちて来ましたので今回はこの辺で帰ることにしました(‐人‐)アリガトウゴザイマシタ

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