こんばんは🤗

本日も宇佐八幡宮の参道を歩いた時の事を書いていきますヽ(=´▽`=)ノ✨

まずはちょっと変わった石燈籠ですね~(´-`).。oO
火袋に穴が開いてませんね~🤔


まるで祠みたいです(*´艸`*)

こちらには従軍記念碑がありましたよ(ー人ー)
こちらを書かれたのは萩出身の奇兵隊士の山口素臣さんです(≧∇≦)b
明治三十七年に陸軍大将になられた方です(人´∀`).☆.。.:*・゚

建立時期は明治三十五年です(//∇//)

参道途中には摂社が1つつありましたよ(*˘︶˘*).。.:*♡
こちらは…………………………(。ŏ﹏ŏ)ウーン

市蝦子?それとも人丸社かなぁ(´-`).。oO
無事に参拝して戻って来れますように(ー人ー)パンパン


榊がペットボトルに(@_@;)💦
なかなか斬新ですね~(≧∇≦)b💞


こちらの石燈籠

火袋も普通ですがぁ…………………………

私が気になったのはこちらの文字(≧∇≦)ノ
日置流(へきりゅう)とは、古流の逸見流を学んだ日置弾正政次(正次とも)が確立した、和弓の流派の一つである。日置弾正正次は室町時代(15世紀後半)の人といわれているが諸説あり、神仏の化身と称されたり、日置吉田流初代・吉田上野介重賢と同一人物であるとされたりするが、架空の人物との説が有力である。

この日置流は、「吾国弓術中興始祖也」(『本朝武芸小伝』)と称される日置弾正正次(生没年不詳)を祖とする。日置弾正は室町時代中期(15世紀後半)の大和の人といわれているが、その経歴については不明な点も多く、実在説、架空人物説、吉田流初代・吉田重賢と同一人物とする説などがある。神仏の化身とも称された。日置弾正の高弟の一人に吉田重賢がおり、以後主に吉田氏により継承されたので吉田流ともいうが、現在では一部を除き日置流と呼ぶ場合が多い。
(Wikipediaより)

ここで昔神事のために来られたと思われます(´-`).。oO

やっと参道の石段までやって来ましたよ(≧∇≦)b💞

げ!

今度は長い石段ですよ(´Д`)ハァ………………

その前にまずは太鼓橋を渡って((o(´∀`)o))ルンルン

水も綺麗ですね(人´∀`).☆.。.:*・゚

こちらの太鼓橋は安政四年(1857年)に建立されたものです(//∇//)

この年に老中の阿部正弘が亡くなり、翌年に井伊直弼が大老となり、安政の大獄が始まります(´・ω・`)ショボーン


さて、この長い石段でどこまで休まず登れるか腕試しならぬ脚試しです(≧∇≦)b