常安寺さんの裏山に目的の墓所があると聞き行って来ました。.+:。 ヾ(◎´∀`◎)ノ 。:+.
裏山に通じるこの階段ですね~o(*゚∀゚*)oワクワク
看板には毛利家家臣・当寺開基家 粟屋家墓所とあります。.+:。 ヾ(◎´∀`◎)ノ 。:+.
粟屋家とは毛利家が防長二州に封じられた後、寛永の検地でこの大河内が粟屋氏の給領にあてられた事が書物に残されています。(*^ー^)ノ
「
(毛利)秀就公御判
御配所附立
一、千四百石 熊毛郡大河内村
二、弐百石 大津郡日置村之内
以上千六百石
寛永弐年八月十三日
益田玄蕃頭
清水信濃守」
この粟屋氏は寄り組でも上位の家柄で、福原・益田氏に次ぐ藩きっての名家でした。.+:。 ヾ(◎´∀`◎)ノ 。:+.
幕末には五千石弱まで所領を増やしています。.+:。 ヾ(◎´∀`◎)ノ 。:+.
寄組以上で四千石以上はわずかに五家だけでした。(堅田氏・国司氏・粟屋氏・山内氏・益田分家)
この事から考えても粟屋氏が極めて有力者であった事がわかりますね~*。・+(人*´∀`)+・。*
粟屋元種さんが毛利元就さんに仕えて功を立てて以来代々毛利家に仕えて来ました。ヽ(*>∇<)ノ
なのにあまり世に名前が知られていないですよね。σ(´・ε・`*)
これは幕末に藩内が正義派俗論派に分かれて藩政を争っていた時に粟屋家は俗論派に属していて太田絵堂の戦等で敗戦し、高杉晋作さん等の正義派が実権を握ると俗論派は衰退していきました。(´・ω・`; )
でも!粟屋氏はこの大河内には多くの功績を残しているのですよ~o(*゚∀゚*)o
大河内小学校の始まりとなった郷校「敬学堂」を創設したり、農地施設の整備(八十箇所の用水路を造りました)、山を開作して出た土で川に大規模の堤を築き開田を行い民のために勤めました。
民の感謝の気持ちは強く、大正三年に制定された勝間村(旧熊毛町)の村章には粟屋氏の家紋五骨白扇の中に毛利家の家紋である一字三星をあしらった物となりました。.+:。 ヾ(◎´∀`◎)ノ 。:+.
あ!
ちょっと書き過ぎました。m(_ _)m
それでは早速お参りしましょう。ε=ε=┏(・_・)┛
お寺のお嬢さん、今回は大変お世話になりました。(*- -)(*_ _)ペコリ
周南市に住んでいる方もあまり知らない歴史あるお寺さんです(‐人‐)ナムナム