徳修館側のコミュニティーセンターの脇に二つの石碑がありました。(゜∇^d)!!
ひとつは「大涛君墓碑銘」です
読めますでしょうか?(´・ω・`)?
そこで近くにおられた紳士に声をかけてみたところ
「詳しい先生がおられるので聞いてみちゃろう」
そしてこの前の水曜日にその先生とお逢いして石碑の内容から人物、色々と教えて頂きました。.+:。 ヾ(◎´∀`◎)ノ 。:+.
この石碑に書かれている大涛緩さんの事
、この1枚の石碑に書かれている事からこの当時の長州藩の乱れた状況がわかるのです。
が!
今回はこの石碑の内容を簡単にご説明致します。.+:。 ヾ(◎´∀`◎)ノ 。:+.
(この石碑に書かれている事もかなり簡単にまとめているのですが、今回は大涛緩さんの事を私なりの解釈で書きますので石碑の内容と異なる場が多々ありますがご了承願います)
大涛緩幸次(おおなみゆるべこうじ)さん
天保十四年(1843年)三月三日熊毛三丘村の有馬基宗さんの次男として生れ、幼名を竹之進と名付けられました。.+:。 ヾ(◎´∀`◎)ノ 。:+.
彼はまさに神童といってもおかしくない才能の持ち主で元服を迎える頃にはすでに国家について考えていた。
自分に対し妥協を許さぬ男、それが大涛緩幸次
文久三年(1863年)七月に奇兵隊に入隊。
馬関であった四カ国連合の砲撃に対する幕府側の問責使として派遣された幕臣中根市之丞さんを小郡(現山口市)で暗殺を試みるも失敗
(この後、中関で中根さんを暗殺?
その中根さんのお墓は防府市の中関にありますが以前行った写真が見当たらないので今度機会があれば再度行ってちゃんと書いてみようと思います。ヽ(*´∀`*)ノ)
そのまま脱退し、大和村に行き石城山に登り周防灘を眺めます。
そこで彼は荒波で岸壁を崩しそうな勢の海を見て
「今、天下の情勢はあの荒波のようだ!私が身をていして守ろう」
と、名を大涛緩幸次と改めます。
その後四境戦争では各地にて功績をあげました。
しかし、明治三年の兵制改革で各諸隊の反発を抑えるべく奔走するのですが、逆に誤解され自刀しました。
明治三年三月五日、彼は切腹直前まで談笑し、自然体を保ったまま逝ってしまいた。
また、彼の妻の千嘉も彼の死後四十六日の夜に墓の前で自害してしまいました。
近隣の者で惜しまない人はいませんでした。
四十周忌の年に当たり皆で協議しこの碑を建てることになります。
そこで文章を書いたのが親交の長かった赤宍克修さんです。
(赤宍さんは私も初めてお聞きした名前なので、どんな方なのか宿題です。(´▽`;)ゞ)
石碑の裏には奥さんの千嘉が詠んだ時世の句がありました
「世をすてて われもゆくこそ嬉しけれ 清き心をせこにならひて」千嘉
なんか夫婦愛を感じますね。
その脇には有馬早々子の句碑がありました。ヽ(*´∀`*)ノ
句碑には
「ふるさとに おちつく日ざし 返り花 早々子」
とありました。
有馬早々子さんは数々の業績を残し、昭和四十四年にお亡くなりになりました。。・(つд`。)・。
ひとつは「大涛君墓碑銘」です

読めますでしょうか?(´・ω・`)?


そこで近くにおられた紳士に声をかけてみたところ
「詳しい先生がおられるので聞いてみちゃろう」
そしてこの前の水曜日にその先生とお逢いして石碑の内容から人物、色々と教えて頂きました。.+:。 ヾ(◎´∀`◎)ノ 。:+.
この石碑に書かれている大涛緩さんの事
、この1枚の石碑に書かれている事からこの当時の長州藩の乱れた状況がわかるのです。
が!
今回はこの石碑の内容を簡単にご説明致します。.+:。 ヾ(◎´∀`◎)ノ 。:+.
(この石碑に書かれている事もかなり簡単にまとめているのですが、今回は大涛緩さんの事を私なりの解釈で書きますので石碑の内容と異なる場が多々ありますがご了承願います)
大涛緩幸次(おおなみゆるべこうじ)さん
天保十四年(1843年)三月三日熊毛三丘村の有馬基宗さんの次男として生れ、幼名を竹之進と名付けられました。.+:。 ヾ(◎´∀`◎)ノ 。:+.
彼はまさに神童といってもおかしくない才能の持ち主で元服を迎える頃にはすでに国家について考えていた。
自分に対し妥協を許さぬ男、それが大涛緩幸次
文久三年(1863年)七月に奇兵隊に入隊。
馬関であった四カ国連合の砲撃に対する幕府側の問責使として派遣された幕臣中根市之丞さんを小郡(現山口市)で暗殺を試みるも失敗
(この後、中関で中根さんを暗殺?
その中根さんのお墓は防府市の中関にありますが以前行った写真が見当たらないので今度機会があれば再度行ってちゃんと書いてみようと思います。ヽ(*´∀`*)ノ)
そのまま脱退し、大和村に行き石城山に登り周防灘を眺めます。
そこで彼は荒波で岸壁を崩しそうな勢の海を見て
「今、天下の情勢はあの荒波のようだ!私が身をていして守ろう」
と、名を大涛緩幸次と改めます。
その後四境戦争では各地にて功績をあげました。
しかし、明治三年の兵制改革で各諸隊の反発を抑えるべく奔走するのですが、逆に誤解され自刀しました。
明治三年三月五日、彼は切腹直前まで談笑し、自然体を保ったまま逝ってしまいた。
また、彼の妻の千嘉も彼の死後四十六日の夜に墓の前で自害してしまいました。
近隣の者で惜しまない人はいませんでした。
四十周忌の年に当たり皆で協議しこの碑を建てることになります。
そこで文章を書いたのが親交の長かった赤宍克修さんです。
(赤宍さんは私も初めてお聞きした名前なので、どんな方なのか宿題です。(´▽`;)ゞ)
石碑の裏には奥さんの千嘉が詠んだ時世の句がありました

「世をすてて われもゆくこそ嬉しけれ 清き心をせこにならひて」千嘉
なんか夫婦愛を感じますね。
その脇には有馬早々子の句碑がありました。ヽ(*´∀`*)ノ

句碑には
「ふるさとに おちつく日ざし 返り花 早々子」
とありました。
有馬早々子さんは数々の業績を残し、昭和四十四年にお亡くなりになりました。。・(つд`。)・。