ここ繁枝(しげし)神社に来た本当の目的は以前読んだ司馬遼太郎の短編集「木曜島の夜会」にある「大楽源太郎の生死」で出てくる大楽源太郎さんが気になっていたから。


長州人をあまり評価しない勝海舟が
「長州人で話が出きるのは広沢真臣か大楽源太郎ぐらいかな。良さそうな奴だったよ。」
と割と高い評価をされているのに、ほとんど知られていない。

何故?





ちょうど繁枝神社の宮司さんにも会えたので
「台道に在るという大楽源太郎さんの西山塾跡を見に行きたいのですが」
と尋ねてみると、こちらにと案内されました。

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大楽先生之碑
この石碑は内閣総理大臣寺内正毅さんが建立したと言われています。(゜∇^d)!!
でも寺内さんのお名前が無いのは何故?(; ̄Д ̄)?

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おっと!そう言えば大楽源太郎さんを知らない方がほとんどだと思いますので、簡単にご紹介しますね。

大楽源太郎

天保五年(1835年)萩の城下町に父・山県信七郎、母・キセの間に産まれました。
山県家は代々萩藩の寄組、児玉家の家臣で、源太郎は主命により十二才の時に大楽助兵衛の養子になります。
その後児玉家の領地である台道に移り住みます。
その後勉学で頭角を現し、右田の大田稲香、柳井の月性、九州の大分は日田の広瀬淡窓等の塾で学びます。
そして江戸や京に上がり、西郷吉之助(西郷隆盛(本名 隆永))等と交流を深め、そのまま、維新の波に飲み込まれて行きます。
高杉晋作と決起したりしながら時代にほんろうされながらやがてここ台道で西山塾を開きます。
後の内閣総理大臣寺内正毅もここで学びます。

ところが!この時事件が起こります。

隣村出身の兵部大輔大村益次郎が暗殺されかかります。(その時の傷が元で益次郎は亡くなります。)
首謀者は不明(海江田?)ですが襲った人物は解っています。
残念な事に西山塾の塾出身の三人神代直人、団伸二郎、大田瑞太郎(充太郎)(大田稲香の息子)です。
なんと、彼らの名前で大楽源太郎は大村益次郎暗殺未遂?事件の首謀者とされてしまいます。(;゜0゜)
そのため、源太郎は大分の姫島に流され?てしまいます。
彼は故郷台道から見える姫島で再起を起こしますがうまく行かず、福岡県久留米藩に流れ、最期は無残な死をとげます。

詳しい事が知りたい方は、是非「大楽源太郎の生死」の本編にも出てくる山口県を代表する歴史研究家の内田伸先生の「大楽源太郎」をお薦めします。(図書館に行くと置いてありますよ。(゜∇^d)!!)

宮司さんに西山塾の行き方を尋ねると地図の場所に連れて行って下さいました。(゜∇^d)!!

そこには大楽源太郎さんの説明板にありました。

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行き方を標した案内板がありましたが、正直、わかりません。┐(´д`)┌

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宮司さんに車(轟天号)を停める場所、お世話をしている方の場所お名前を聞き、目的地、西山塾跡を目指します。(゜∇^d)!!

ところが!残念な事にお世話をしている方がお留守のご様子。(;゜0゜)

おーいと呼べども返事はなく、(夏目漱石の小説みたいですね。( ̄▽ ̄;))

仕方なく、石碑を見学。

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西山塾跡之碑

ここで多くの人が学んだんですね。(v^-゜)♪



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説明板です。(゜∇^d)!!

石碑の裏には

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茶室跡があるそうなのですが、轟天号が気になって諦めました。ρ(・・、)
(帰りにも数十分お待ちしましたがお帰りではありませんでした。ρ(・・、))

そう言えばこの側に大楽さんのお墓があるとか!是非行って拝んで行こうとお墓に直行。車≡3≡3≡3