『Flickrで誤って写真を公開した件』についての私が考え方 | 雲の上はいつも青空

雲の上はいつも青空

不思議な経歴をもつエンジニア!?の徒然なブログです。
お仕事関係の話が多いと思いますが、コメントとかもらえると中の人はとても喜びます(^O^)/

今回は久しぶり今回は久しぶりにFB(Facebook)にコメントを書いたり、Twitterでいろいろ発言したりしたのですが、やはり自分の考え方(立ち位置、論旨)をはっきりさせておかないといけないと思いちょっと固めの文章ですがまとめてみることにします。

---------------------
『高木浩光さん、産業総合研究所の人間。この人の言動で、いかに、日本のイノベーションが削がれてきたか。これ以上、放置するわけにはいかないと思い、blogに書きました。』

事の詳細は他にも沢山のご意見があるのでご参考までにリンクを…

『プライバシー保護に疎い人を気づかせるために、結果としてプライバシー侵害になっても良いのかという問題』

---------------------
本件に関して、私の考え方というか論旨は以下の通りになります。

1.樋渡氏がFlickrで誤って写真を公開した件についての高木氏の対応について、一般論で論ずることは適切で無いと考えます。

2.URL付きのTweetという行為そのものに対する論評と、そのTweetの中身(文章)に対する論評は関連しつつも本来別なものとして取り扱う必要があると考えます。

3.日本語の持つ言葉の背後に隠れたニュアンスや隠喩といったものを意識的に使うことによってミスリードを誘うような書き方は現に慎む必要があると考えます。

もう少し掘り下げて書いてみます。

まずは、樋渡氏と高木氏双方についてネット上で得られる各種情報(ブログやTwitter、USTの録画等)を確認し、ある程度の人柄というか話し方、用語の使い方… 諸々の予習は必要です。そうしないと重要な一言を誤解・曲解する恐れがあるからです。
これは特にTwitterを使って議論する場合とても大切な点で、それまでの時系列なやりとりを無視(意識的・無意識的を問わず)し、たった1つのTweetを取り上げて論評するのは議論の本筋から外れ、たんなる言葉尻のたたき合いに落ちてしまう危険な行為です。それは、『けっこうです』という言葉について、前後の文脈を見ずに解釈した時の危険さと同列であると言えます。

もちろん同じ写真や文章を見たとしても閲覧者が全て同じ感想を持つ事の方がまれでしょうから、本件のように公開されている写真に対するアクションの違いがあって然るべきだと思います。

つまり、公開されている写真に対してURL付きのTweetをする人や本人へメンションを飛ばす人、公開そのものに疑問を感じ静観している人、メールやTwitterのDM、FBのメッセージ等第三者からは見えない方法で公開している本人へ知らせる人… 様々なアクションが考えられますが、その行為についてどこまで制約されるべきか? もしくは行為における行動規範や基準が存在するのか? という論点が大切であり、それは本当に一義的に確定する話なのか?という根源的な問いでもあります。

それではその根源的な問いに対する回答を私が持っているかと言えば、残念ながらご披露するほどの確信的な答えは持っていません。ただ、本件に限って言えば樋渡氏が二度ほど写真データをFlickrにアップロードします(してます)と公言している事を考慮すると、公開後にその公開場所へのリンクをつけたTweetに対し、その行為を規制したり非難する事には違和感を感じます。

ただ、ここが一番難しい所だと思うのですが、同じURL付きのTweetをしたとして、そのTweetの中身が、『すごい綺麗な写真、楽しそう~♪』というのと、『【拡散希望】これはひどい、ひどすぎる…』というのでは評価というかそのTweetを見た人の印象が全く異なるでしょう。もちろんこれは極端な例ですが、行為と中身は違うようで不二不一の関係だということが良く解ります。同じ行為(URL付きのTweetをした)であってもTweetの内容によっては読み手に与える印象が全く違うので、それによって行為そのものの評価・評論が行われるのはある意味危険であると私は考えます。

少し話を別な観点から見てみます。本件に関してはTwitterやFBのコメント欄を中心に沢山の方が意見や疑念を書かれてますが、その中でも特に私が気になったのが『拡散』と『晒し』という言葉です。
使っているご本人がどのような意図をもってこの言葉を選んだのかは不明ですが、Twitterの世界において『拡散』とはどういう意味を持つのでしょうか?

フォロワーが数千いや万単位もある方が一言Tweetしたとします。Twitterの仕組みでは全てのフォロワーがオンラインであれば、全てのフォロワーのTLにそのTweetは表示されます。かたやフォロワーが数人の方もいるでしょう。フォロワー数の多い人のTweetが『拡散』とよばれ、フォロワー数の少ない人のTweetは『拡散』とは呼ばれない!? いえ、こんな単純な話ではないのはTwitterを少し経験した人であれば解ると思います。

どんなにフォロワーが少ない方でも、そのフォロワーの中のだれかがRTし、それを見た人がまたRT…と、この繰り返しでとてつもない多数の人々へTweetが流れていくのがTwitterの世界です。これは感覚的な話ではなくシステムが基本的に持っている機能の話です。

ですから『フォロワー数の多い方が発言したり、沢山の方がRTした結果、その発言内容やURLが多数の人々へ拡散した』というのが正確な書き方であるのに、『ある発言者が情報を拡散した』と書く事で、あたかも拡散を目的としてTweetしているかの錯覚や錯誤に誘導する意図があるなら、このような言い回しは極めて悪質であると言わざるを得ません。

つまりTwitterというシステムは本来情報を拡散するように作られたシステムであり、利用者はそれを理解し納得して使っているものを、まるで拡散するのが悪であるかのように誘導し、またその行為を『晒す』という含みがある言葉を使うことで、自分たちが非難したい相手に対してネガティブキャンペーンを行うというのは決してフェアなやり方ではないと思います。

まとめと言うには話が発散しすぎました。

最後になりましたが、今回の事件を私なりに俯瞰すると、一人一人のアクションにはそれなりのメリットデメリットがあるので、そこを個別に評論するのは無意味のような気がしています。『あれはどうみても間違って公開しているよね~』と考え静観していた人がいた場合、なにやら一番穏健のように感じますが、仮にその写真を見た人全てがこのような対応を取った場合、その不適切な状態は永遠に解消されず、不適切な情報が検索ロボットやクローラー達に収集されてしまいます。
それではということで、『公開されている情報を見つけたら必ず公開した本人に公開の意図を尋ね、お返事をもらわないとURL付きのTweetしてはいかん!』というのも窮屈ですよね。

ですから、いろんな対応を取る人がいて、そのたくさんの行為の結果がネット社会の暗黙知として蓄積・熟成されていくものだと信じています。 …ということで、論評や議論は大いに結構だし私も大好きです。しかし相手を攻撃するだけの恣意的な書き込み、議論の為の議論、対話を拒否し己の考えだけを声高に叫ぶような『愛』がない議論は嫌いです。

市長、やっぱりこういう文章は気持ち悪いですか?