yutubeでこんな動画が公開されてました。
殺処分の動画です。
多分見たくない人がいるので、直では貼りませんね。
【以下mixiのコピペ】
初めまして、北海道の雑誌記者です。
札幌市動物管理センターへの取材を通じ、職員の業務研修用
資料として撮影された殺処分の映像を入手しました。
実態を広く知らしめるため、管理センター所長の許可を得て
この映像を公開しましたので、ご高覧頂ければと思います。
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※これまで、滅多にない「処分中」のシーンが表に出る場合は
取材させた自治体も市民からの苦情を恐れ、その名前だけは
公表を拒否してきました。そんな中で、今回の札幌市は非常に
勇気ある決断(許可)をしたと思います。
これを見ながら思ったんですが、というか、気付いたんですが、
僕は、殺処分を削減しようって言うミッションを掲げられるほど、きれいな人間じゃない気がしました。
⇒この動画を見て何度も泣いたって書き込みがありました。
⇒しかし、僕は泣きませんし、何度も見たことあるような動画と感じています。
⇒そういう、自分を認めています。
そこがきっと引っかかりなんじゃないかって思いました。
自分が殺処分問題に関わるなら、いい人面して、きれいな人間のフリしないと、関われない。
そんな風に思っていたことに気付きました。
殺処分削減って、きっと凄く洗練されてて、おもいやりがあって、一心不乱に動物のことを思える人がやるべきだって、どこかで感じてるんです。
きっと、殺処分削減を望む多くの人が、そう思ってるんじゃないかって、思うんです。
例えば僕が何らかの活動をしたとして、殺処分削減を期待する人が、僕に抱く期待は、きっと人格的なものまで含むんじゃないかって思うんです。
勝手な妄想だし、勝手な自負になるようにも思いますが、そういう人間が殺処分という問題に挑んで欲しいという願いがやっぱりあるんじゃないかな?
でも、僕は自分でも分かるけど、腹黒くて、不真面目で、面白いことがすきで、動物よりも人が好きで、大きなことがすきで、楽しくしたいって思ってる人間なんだよね。
そういう人間が、この分野に携わっていいものか。
そう、無意識に思っちゃってたんだな。
それが、一番大きなズレだったのかもしれない。
つまり、自分の性格と、殺処分を減らす人に期待されている性格が違うように思ってたってことです。
自分はそのポジションにふさわしくないと。
マザーテレサやガンジークラスの人間じゃなきゃダメだ的な?
しかし、それは勘違いの可能性があるって事です。
立場が人を作ることもあるし、自分の可能性を未来進行形で考えることも必要ですよね。
噛み砕いて書けない・・・。
もしかしたら、このままの自分でも、歓迎されるような切り口で、この分野ににいることはできるかもしれないね。
きっと自分は企画したり、運営したりがすきだから、ルーティーンではダメなんだな。
うん。何か。見えてくるかもしれない。