ナムヒはブンドを先ほどまでミュージカルの上演されていた舞台袖につれてくると
自分の使っていたカヤグムの置かれたテーブルの前で立ち止まり、ブンドへと向き直った。
「…」
「ナウリ…。」
ブンドは目の前に立つキーセン姿の女を見ていた。
「物心ついたころから…」
ナムヒが静かに話し始める…ブンドはナムヒの言葉を聞き漏らさないようにと身を乗り出した。
「物心ついたころから、なぜかカヤグムに執着していました。
カヤグムを触る時の胸を締め付けらるような焦燥感…理由はずっとわからないまま…」
「先日…ナウリとお会いしてから、少しずつ…記憶が蘇ってきたのです」
“記憶”という言葉にブンドの心臓は早まる。
「記憶…」
「はい…ユンウォルとして生きていた頃の…前世の記憶…」
ナムヒは一歩、一歩と足を踏み出すとブンドの胸の前で顔を上げた。
「ユンウォルは…チ・ナムヒとしてこの時代に生まれ変わりました。」
ブンドは驚かなかった。信じがたくとも真実だとすでに分かっていた。
ただそれを本人の口から確認したかっただけだ…
暗がりの中で見下ろすユンウォルだと名乗るその眼がもっと別の何かを言いたげに揺れている
「ナウリはおっしゃいました。私のような物が優遇される世の中があると…」
ブンドはハッとした。
それは確かにあの時…ブンドがユンウォルに言った言葉だった。
この世界にユンウォルを連れてきてやりたいと願った。
奴婢などという身分のない時代に、自由に生きさせてやりたいと…
この世界でこそユンウォルは幸せに暮らしていけるだろうと…そう思ったからだ。
「ナウリがこの世界に…この時代に導いてくれたのです。だから私は…
こうしてまたナウリとお会いすることができました…」
触れそうで触れない距離を保ちながらもブンドを見上げる瞳が喜びに輝いている。
「ナウリ…私は…」
ユンウォルはブンドが図らずも願いどおり、チ・ナムヒとして、
わが身の身分を卑しいと思うことのない現世で、何ひとつ不自由なく幸せに暮らしてきた。
それはブンドが願ったからなのか、ユンウォルのブンドへの想いが強かったからなのか、
お互いに知る由もなかったが…
ユンウォルはこうして再び、清らかな身でブンドの前に立てることが嬉しかった。
ブンドの前に立つたびに心疾しく感じた汚れた身体も朽ち果てた……
そう考えるだけで震えるほどの喜びが湧きあがった。
「ユンウォル…私は…この地に来てから…お前に何一つしてやれなかったことを悔いていた」
「…」
「お前は、私の為に本当によく尽くしてくれた…お前には最後までつらい思いをさせてしまった…
そんなお前が今、幸せに暮らしているというのなら…私は嬉しい…」
「…ナウリ」
見上げるユンウォルの瞳がブンドの視線をとらえたままゆらゆらと揺れ大粒の涙が零れ落ちた。
ブンドはその涙を指でそっとぬぐうとユンウォルの両肩に手を置いた。
ヒジンよりも小さな肩だと思った。
その華奢な体つき…背丈も…おそらく過去のユンウォルと相違ないだろう…
こんなにも小さな肩にあまりにも重い荷を背負わせていたことに気づき胸が痛くなった。
至極当然と思っていた世界観も崩れ去り、この時代に馴染んでいくたびに、
自分のして来たことの意義を考えさせられる。
奴婢などという制度を当然のごとく受け入れ、人を切ることに大義名分を感じこそすれ疑ったこともなかった。
使用人だったユンウォルが自ら妓房に入ると言ったときにもそれが彼女の為なのだと信じて疑いもしなかった…
でも今ならわかる気がする、ユンウォルがなぜ妓生になったのか…
すべては自分を助けるためだったのだ…
あの手紙も…あのお札も…すべて手に入れたのはユンウォルだったではないか…
ブンドは心が苦しかった。
ブンドはユンウォルの両肩に置かれた手に少しだけ力を入れるとユンウォルの体を引き離すように自らが一歩後ろに下がった。
主従関係の存在しないこの地に生まれ変わったユンウォル、この者に触れていいのは自分ではないはずだ…
この者はこの世界で平凡で当たり前な幸せを得るべきなのだ。
愛する人を愛し、愛する人に愛され、幸せに生きていくべきなのだ。
ブンドはユンウォルの肩に残された手を離した
「ナウリ?」
「ユンウォル…お前はこの世界で幸せにならなくてはいけない。
前世の記憶など捨て、誰よりも幸せに…」
***つづく***