(いすけ屋)

 

 10数年前、日経新聞から徒然「富田メモ」なるものが発表され、昭和天皇が靖国参拝しないのはA級戦犯合祀があったからだ」と結論付けられてそのままになっている。当時、数々の反論もあったが、まったく取り上げられず、日経新聞は2006年度の日本新聞協会新聞協会賞(編集部門)に選ばれている。受賞者は記者の井上亮である。日経新聞は事実を強調するために「富田メモ研究委員会」なるものを設けて学問的に検証している。委員会のメンバーは、御厨貴(東京大学教授)、秦郁彦(現代史家)、保阪正康(作家)、熊田淳美(元国立国会図書館副館長)、安岡崇志(日本経済新聞特別編集委員)、富田知子(特別委員・富田朝彦夫人)の6名だった。結論として、「昭和天皇の発言について『他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない』とそている。特にメモを分析した学者の秦先生は、ただちに同紙上で、メモの記述は、「過去の歴史的資料と整合しており、間違いなく事実である」と論評している。

 

そのメモの写真がこれ

 

 

 ところが新聞・テレビに発表されたメモはこれ

 

「さくら子」さんのブログより拝借

 

 

  いかにも天皇のお言葉として発表しているが、その上にはちゃんと”「藤尾(文相)」の発言”と書いてある。この指摘は下記「さくら子」氏のブログ「悪質な捏造:富田メモの嘘」にある。また「依存症の独り言」氏は”いわゆる「富田メモ」について(最終)”として、メモは昭和天皇のお言葉ではなく、徳川侍従長の記者会見のものだと結論付けている。下記2ブログを必ず読んでみてほしい。

 

依存症の独り言
2006/07/24
いわゆる「富田メモ」について(最終)
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2006/07/post_6c2b.html

 

さくら子
2018年08月20日(月)
悪質な捏造:富田メモの嘘
https://ameblo.jp/bogih/entry-12399247386.html

 

 

  小生も、このメモがそのまま昭和天皇のお言葉とするのは、矛盾があると感じていた一人である。A級戦犯と言っても、それは戦勝国が勝手に決めたもので、広島・長崎の原爆や東京大空襲で民間人を数十万人殺害した米軍を法的に罰していない東京裁判自体がデタラメであることから、陛下がそのまま受け入れるはずがないと確信している(表向きは別)。

 

 三ヶ根山の殉国七士廟の極く近く(直線で五百メートルくらい)に「グリーンホテル三ヶ根」という一軒のホテルがある。昭和五十四年五月二十六日、昭和天皇皇后両陛下はこのホテルに御宿泊された。翌日の植樹祭に御出席のためである。植樹祭の場所は当時の愛知県西加茂郡藤岡町(現豊田市)西中山地内であった(現昭和の森)。現地は遠いので早朝に出立しなければならない。二人の職員が両陛下を御案内するためにお部屋に出向いた。職員は「息をのんだ」とその瞬間のことを言う。
 両陛下は直立し佇立したまま
殉国七士墓と慰霊碑群に対して正対されていたのである。二人の職員がお部屋に到着してから十五分問、それ以前を加えると二十分間は正対されていただろうという。

 

 陛下はわざわざ殉国七士墓と慰霊碑群のある三ヶ根山の近くに宿をとって、A級戦犯にお参りしている。また、陛下が靖国参拝をしなくなったのは、三木首相が「私人としての参拝」だと答えてからのことである。「陛下がA級合祀をお気に召さずに参拝しないのだ」というのは左巻きの捏造でしかない。この時点で小生は秦邦彦という歴史学者を信用しなくなった。もちょっとましな歴史学者かと思っていたのに、大いに失望したものだ。各新聞は揃ってその捏造をほんとのように報道し、いまだに訂正謝罪報道もしないでいる。特に日経新聞は、メモを全て公開し謝罪と真実を明らかにする責任と義務がある。小生がジャーナリズムを信用できないのは、こう言った捏造をほったらかしにしている左巻き新聞が、いまだにその悪癖を続けているからだ。

 

 この件で小生が納得したのは、「(続)日本人が知ってはならない歴史 若狭和朋(朱鳥社)」と言う本である。その部分をここに添付する。

 まずメモの部分(写真)。

《 前にもあったが どうしたのだろう
中曽根の靖国参拝もあったが
藤尾(文相)の発言。
 =奥野は藤尾と違うと思うがバランス感覚の事と思う、単純な復古ではないとも。

 私は或る時に、A級が合祀され
 その上 松岡、白取までもが
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか
易々と
松平は平和に強い考えがあったと思うのに
親の心子知らずと思っている
 だから 私あれ以来参拝していない
 それが私の心だ  》

 

(一)「昨年は高松薨去間もないときで心も重かった」
  これは天皇陛下の措辞ではないでしょう。薨去とは三位以上の人の死を言う言葉です。つまりこ

  れは臣下の語彙。
  昭和天皇が自分の弟宮の死を「薨去」と表現されることは在り得ぬこと。これは臣下の者が高松

  宮の御逝去を「薨去」と表現したもの。

(二)「松平の子の今の宮司は……松平は平和に強い考があったと思うのに……親の心」

  これは徳川義寛侍従長の言葉ではないか。徳川宗家の当主にして相応の年配者が連枝の「松

  平の…親の心…子…」と発言したものとみるのが自然である。徳川侍従長は六十三年四月十二

  日に退職されている。そして「元侍従長」

  として四月二十八日に記者会見が開か 

  れている。富田宮内庁長官も同席している。今回出現して話題となっているメモは、この時のもの

  と考えるのが自然だ。この発言は四月

  二十八日「pressの会見」とあるではないか。この日に重ねて昭和天皇の記者会見が行われたの

  でしょうか。四月二十五日には天皇誕生 

  日を前にした恒例の記者会見が行われている。そして誕生日の二十九日にも行われている。

(三)以下は富田長官が自分の言葉を記したものだが、長官という言葉は陛下の措辞ではないだろ 

  う。富田長官は自分のことを、長官と発音

  した徳川元侍従長の言葉をそのまま書いたと解するのが平明な読解。つまり、富田長官のもとに

  今年の陛下はお元気そうだなという記者
  の印象が寄せられていたのだろう。それに陛下が「去年は吐瀉したが」と触れられたのを徳川侍

  従長が紹介したというのが事の理と解さ

  れる。陛下の言葉を記す富田長官が、自分のことをわざわざ「長官」とは表記しない。つまり、世

  を覆っている「天皇のお言葉」説は、昭和 

  天皇が富田氏を「長官」と呼ばれ、聞いた富田氏が自分のことを長官と書いたとする頭痛がしそう

  な程度の悪い冗談にほかならない。

(四)「余り閣僚も知らず、そうですが、が多い」(欄外)
  富田長官は陛下のことを「余り閣僚も知らず、そうですがが多い」と批評しているというのか。亜心

  い冗談だ。「天皇のお言葉」説は私には

  冗談にしか聞こえない。

(五)「嫌だと言ったのは奥野国土相の靖国発言、中国への言及にひっかけて言ったつもりである…

  中曽根の靖国参拝もあったか……藤尾   

  (文相)の発言
  奥野は藤尾と違うと思うが、バランスの感覚のことと思う。単純な復古ではないとも」

  順番に振り返ってみる。
  四月二十二日、奥野国土庁長官が「みんなで靖国神社を参拝する国会議員の会」で参拝。「公人

  か私人か」と問われて、もういいかげん

  にしたらどうか、鄧小平に日本国民が振り回されているのは残念」と発言。五月十三日に辞任。こ

  の会見の日(二十八日)も野党が騒ぎ、

  騒ぎが大きくなっていた。
  「前にあったね」というのは、三年前の昭和六十年八月十五日に中曽根総理が靖国神社に公式

  参拝し、中国から批判され翌年から中止

  したことだろう。
  翌昭和六十一年九月・藤尾文相が韓国併合は「韓国にも責任がある」と述べて、中曽根総理から

  罷免された。
  さて、これらの経過を踏まえて昭和陛下が、中曽根・奥野・藤尾・靖国神社宮司たちをこのように

  悪く批評されるとは、悪い冗談としか私に 

  は思えない。贔屓の力士はと問われて、「贔屓の力士はいるが名は言えない」と答えられるのが

  常たった陛下が、かくもするどい人物批

  評をされるとは、信じるほうが無理だと私は断言したくなる。
  「単純な復古ではないとも」というのは、富田長官自身の書き込みだと思う。陛下が「単純な復古」

  などと言われるわけがない。

(六)「私は或る時にA級が合祀され、その上、松岡、白取までもが……だから私はあれ以来参拝し

  ていない。それが私の心だ」
  大騒ぎの箇所。昭和天皇は「A級が合祀され」てから靖国神社参拝をしていないと述懐されたとい

  う。述べてきたように富田メモは徳川元

  侍従長の発言録である。何時の発言かというと、昭和六十三年四月二十八日・記者会見のもの。

  元侍従長と書くのは四月十二日に退職

  し、昭和天皇誕生日の前日に在任中の思い出などを求められて白由闊達にトークしたもの。おそ

  らくオフレコだったと思われる。
  昭和天皇の記者会見は五日前の二十三日と誕生口当日・二十九日に行われている。元侍従長

  がこうした日程の中で専ら昭和天皇の代

  言人であるような会見をするとは、在り得ぬものだ。これは元侍従長の回顧録である。それ以上

  でも以下でもない。
  大騒ぎは、反日劣情日本人の秘めた悪意に発しています。各々方、用心めされよ。

 

 (※) つまり、これは「歴史的な」大誤報である。

 

  富田メモは徳川侍従長の記者会見のもので昭和天皇の言葉を記したものではない。
  日時……昭和六十三年四月二十八日
  メモの作成者……富田宮内庁長官
  付帯事項……徳川侍従長の退職(同年四月十二日)を受けての記者会見
        昭和天皇の会見は四月二十五日と四月二十九日である。
        昭和天皇はこの日には記者会見を行ってはいない。

 

 以上が若狭和朋氏の本から抜粋したもの。非常になっとくが行く。上から2枚目の写真のタイトル「昭和天皇”合祀”に不快感「だから参拝していない」はほとんどのマスコミが使った。ほとんど決め打ちだ。偉い歴史の先生が認めたからかもしれないが、他にもたくさん意見が出ているのに、天皇陛下の政治利用に書く新聞も乗ったということだろう。今頃、この話をぶりかえしても、仕方がないが、これだと、過去の間違いはそのまま消滅させるという韓国のやり方と一緒になる。それでは韓国を責めることは出来ないと思う。