(いすけ屋)

 

 ちょいと以前、「アベ政治を許さない!」と叫んだり、「安倍に言いたい、お前は人間じゃない。叩き斬っ

てやる!」とわめいたりしていた有識者?がいた。もと北海道大学の先生だったかな。ところが五十七年も前に、まるで彼について書かれたような福田恆存の「進歩主義の自己欺瞞」という文章がある。

(潮匡人「誰も知らない憲法9条」より)

 

< 日本の進歩主義者は、進歩主義そのもののうちに、そして自分自身のうちに、最も悪質なファシストや犯罪者におけるのと全く同質の悪がひそんでゐることを自覚してゐない。一口に言へば、人間の本質が二律背反にあることに、彼等は思ひいたらない。したがって、彼等は例外なく正義派である。愛国の士であり、階級の身方であり、人類の指導者である。そのスローガンは博愛と建設の美辞麗句で埋められてゐる。正義と過失とが、愛他と自愛とが、建設と破壊とが同じ一つのエネルギーであることを、彼等は理解しない。彼等の正義感、博愛主義、建設意思、それらすべてが、その反対の悪をすっかり消毒し払拭しさったあとの善意だと思ひこんでゐる。

 

 その何よりの証拠に、彼等は一人の例外もなく不寛容である。自分だけが人間の幸福な在り方を知ってをり、自分だけが日本の、世界の未来を見とほしてをり、万人が自分についてくるべきだと確信してゐる。そこには一滴のユーモア(諧謔)もない。ユーモアとは相手の、そして同時に自分の中のどうしやうもないユーモア(気質)を眺める余裕のことだ。感情も知性と同じ資格と権利とを有することを、私たちの生全体をもって容認することだ。過去も未来と同様の生存権を有し、未来も過去と同様に無であることを、私たちの現在を通して知ることだ。そこにしか私たちの「生き方」はない。それが寛容であり、文化感覚といふものではないか。>

 

 今、民進党の代表選挙が始まっているが、お二人共、もと北大教授ほどではないにしても、当てはまるところがある。それに安全保障について何も語らない。おそらくどうしていいか分からないから語れないのであろうが、政治家なら国民の生命と財産を守るという仕事が第一義であると心得ている筈だ。森友加計問題のバカ騒ぎを反省し、原点に帰って政策を議論する政党になるよう努力してもらいたい。その第一歩として、重箱の隅をつつく作業は止めて、ユーモアを眺める余裕と寛容を身に着けることだ。