ブログネタ:オードリーは春日派?若林派?
参加中私は春日 派!
このネタすご過ぎます。
オードリーに春日派とか若林派ってあるのかな?
若林がいるから春日が引き立つってのがあると思うんですよね。
でも敢えて春日派と言ってみます。
敢えてですよ。
オードリーは若林正恭と春日俊彰によるお笑いコンビ 。所属事務所 はケイダッシュステージ 。2000年 4月 結成。
キャッチコピーは『高速の温度差』(エンタの神様 )、『心地よいズレ漫才』(爆笑レッドカーペット )、『お笑いタッチダウン』(爆笑ピンクカーペット )。
- 2人共に日本大学第二中学校・高等学校 出身。中学2年生の時にクラスメイトとなる。若林の前の席が春日だった。1994年 に日本大学第二高等学校 に進学、ここでもまたクラスメイトになり、たまたま同じアメリカンフットボール 部に入部。そのため2人とも、今でもアメリカンフットボールが特技である(ポジションは若林がランニングバック 、春日がディフェンスエンド )。こうしたこともあり、2010年には第44回スーパーボウル の日本テレビ でのPR大使に任命され、中継でもゲスト出演している。
- 1997年 、高校卒業後、春日は日本大学 商学部 経営学科、若林は東洋大学 第二部 文学部 にそれぞれ進学、卒業している。
- 高校時代の活動拠点は阿佐ヶ谷 だったが、放課後は高円寺 で過ごすことが多かった。また部活帰りにネプチューン や海砂利水魚 のライヴを見に行ったりしていた[1] 。
- 本人たち曰く、中・高と男子校だったため、周りの友人たちも皆、さまざまなジャンルのお笑いの中でもダウンタウン 、とりわけ『一人ごっつ 』のコアな笑いに影響を受けていたと、『高須光聖 の御影流』(TOKYO FM )にゲスト出演した際にコメントしている。本当に当時の松本人志 のスタイルに合わせて、丸坊主にしてタオルを巻き、形から入る友人もいたという。高須曰く「女子がいたらダウンタウン (のコアな笑い)に行かへんからね」。そのため『ダウンタウンDX 』に初登場した際、春日が浜田雅功 に突っ込まれた時の方が、M-1 敗者復活に勝ち進んだ時を上回る数の“お祝いメール”が友人から殺到したという[2] 。
- 若林は小学生時代からお笑いをやりたいと思うようになる。高校生の時アメリカンフットボールで関東代表に選ばれていた春日を見て「春日がいい」と思い、高校3年生の時から誘うようになる。大学に入学した後も春日を誘い続けていたという[3] 。しかし、「面白い奴から順に友達に声を掛けていって、春日は上から8番目に電話を掛けた相手」との話もある[4] 。
- 春日自身は「(若林が春日に対して)とてつもなく華を感じたから」だと思っていた。
- 高校時代、春日と若林ともう1人の親友でいつも3人で行動していたため、若林はこのトリオでお笑いをしたいと思っていた。しかし、その親友が家庭の事情でお笑いの道に入ることが難しかったので、春日とのコンビとなった。
- 若林が春日を誘った理由としては、『春日は意見を持たないので、意見の衝突もすることが無く、何となく言うことを聞いてくれそうだったから』とのことだが、実際には言うことを聞かず、余計なアドリブばかり入れてくるため、誘ったことを少し後悔している。上手くネタに組み込まれることもあるため、割り切っている。
- 2000年 4月、事務所主催のライブに「若林春日」で参加しようとするものの、「コンビ名がないと参加できない」と言われ、春日がその場で思いついた「ナイスミドル」というコンビ名でのデビューを余儀なくされる。
- 2005年 4月、コンビ名を「オードリー」に改名。これは、事務所社長から「うにいくら」、「オードリー」の2択を迫られ、その場が寿司屋であったこともあり、「うにいくら」は社長の思いつきと判断。そのため「オードリー」に決定した。社長は、「華が無い二人なので、華のあるオードリー・ヘプバーン から採った」としている。
- 2006年 10月、新宿のシアターモリエールにて初の単独ライブとなる「シャンプーおじさん」を行う。
- 2008年 1月1日、日本テレビ 系「ぐるナイ番外 おもしろ荘へいらっしゃい! レア芸人だけで生放送 祭りだオッパッピー! 」に出演し、地上波の放送で初めて念願の漫才 ネタを披露する。ただしテレビそのものはこの番組が初出演ではなく、これより約2年前の2006年5月にフジテレビ の「インパクト! (第4回)」に出演している。当時は、藤岡弘、 と中尾彬 のものまねでの出演であった。また、駆け出しの頃には『桂芸能社! 』(TBSテレビ )に数回、VTRを送っている。VTRの内容は、床に置いたフラフープの輪に入った春日に、若手皆で(ビックスモールン など同じ事務所の芸人 も参加している)、「熱湯鉄砲」で集中攻撃をしたり、「松明 」で背中を炙って、どこまで輪から出ないで耐え得るかという、若手芸人ならば一度はチャレンジするようなギリギリのリアクション芸であった。このVTRを見た当時の若林の彼女は、「お願いだから普通に就職して」と頼んだという。
- 2008年12月21日、M-1グランプリ で敗者復活戦から決勝進出を果たし、決勝ファーストラウンドを1位通過し、総合2位。
- 2009年1月1日、フジテレビ「新春お笑い大賞2009!!」でニューウェーブ大賞 1位(視聴者による電話投票で212,036票中76,009票獲得)。
- 2009年、『日経エンタテインメント! 』(7月号)の「好きな芸人・嫌いな芸人ランキング」の好きな芸人ランキングで初登場2位を獲得。
- 2009年8月30日に『24時間テレビ 「愛は地球を救う」 』に出演した際に、先に春日、次に若林が新型インフルエンザ の疑いがあるA型インフルエンザに感染、完全に回復するまで休業となった。
- M-1グランプリ2009は本命必至と言われていたものの、仕事が大量に入ってきている状態で満足に練習も出来ないということで主に事務所・マネージャーの意向により出場を辞退した。若林自身は「決勝にいけなくてもいい、それがその時の実力だから。本当は出たかった」と語っている。だがその一方で、「でも、自分たちではわかってるんです。08年のあの年、あの漫才じゃなきゃダメだったんだって。」とも語っている。この年がラストイヤーなので、翌2010年も出場しなかった。
- 2010年 1月、春日がTBS『オレたち!クイズMAN 』のロケ中に左足を骨折したが、春日は大して痛みを感じておらず、違和感があったため病院に行ってみたところ骨折していたことが判明したため、若林はその時ばかりは「春日は強いな」と驚きとともに感心した。一時休養し、1月29日 の「笑っていいとも!」で復帰した[5] 。
