漉餡パンと東雲の鳥 第47話「悶絶!ワンマン宰相の最期」 | 伊勢守日記

伊勢守日記

吾妻鏡的、当たり障りない美辞麗句の公式記録。

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今は昔、政界に松野鶴平という人(小泉元首相の後見人格だった松野頼三自民党元政調会長の父。鳩山由紀夫内閣の官房副長官松野頼久元代議士の祖父)ありビックリマーク

 

松野は戦前、政友会・鳩山一郎(鳩山由紀夫元首相の祖父)派に属し、鉄道大臣を務めるなど鳩山の側近であった。

 

1946年旧憲法下で、戦後初の総選挙が行われ、第一党を日本自由党が占め、総裁の鳩山が総理になるはずであったが、就任直前、GHQにより公職追放されてしまうえーん

 

そこで松野は鳩山一郎から幣原前内閣の外相吉田茂(麻生太郎副総理兼財務大臣の祖父)に鞍替え。吉田内閣の産みの親となる。

 

1947年、新憲法下初の総選挙の結果、日本社会党が第一党になり下野するものの、連立政権の片山・芦田両内閣は長くは続かず、1948年に崩壊。第2次吉田内閣発足にあたっては、GHQ民政局の意向を受けた自由党反吉田派が山崎猛幹事長を総理総裁に担ぎ上げようとする「幻の山崎首班事件」が発生するが、松野はそれを破砕し、第2次吉田内閣成立にこぎ着けたのである。

 

それはともかく、パックライスです

 

 

その後も1952年、追放解除され帰ってきた鳩山一派の準備が整わないうちに「抜き打ち解散」を進言するなど松野の面目躍如たるものがあった。

しかし、1953年「バカヤロー解散」、1954年「造船疑獄」で吉田政権からは民心が離れていたショボーン

 

なおも解散総選挙で活路を見いだそうとする吉田に対し、松野は手のひら返しで緒方竹虎派に転向びっくり

「総裁あっての党ではない、党あっての総裁だ!」

「まだ解散を主張するなら、そんな総裁はクビだ!」

「自由党から吉田を除名する」

と、激怒ムキームキームキー、吉田は総裁室の机の上に「辞表」を置き、人知れず大磯に帰っていったのである。ガーン

 

ここで1曲。

テレサ・テンで「つぐない」(カヴァー)

 

 

みなさま、ごきげんよう、良い一日を 照れ

 

おわり