チョコレート




「これ、あげる」
「お、マジ?サンキュー」
 由香ちゃんが正樹君に丁寧にラッピングされた箱をスクールバッグから取り出して手渡している。下校前の教室で渡しているのだからおそらく本命ではないのだろう。
 いつもと雰囲気の違う由香ちゃんを見て僕は少しときめいていた。肩にかかっていた髪を今日はシニヨンにまとめているのだ。
「俺にもくれよー」
「あんたの分はないの」
 同級生の女子から母親のようにあしらわれた裕太は、おたふくみたいにほっぺを膨らまして自分の席へと戻ってゆく。
 そんな風景を僕は窓際の一番後ろの席から肘をついて眺めていた。
あと一ヶ月もすれば義務教育から卒業する。
これが最後のチャンスとばかりに気分を昂ぶらせている人もいるかもしれない。
「これ手作り?」
正樹君が包装紙を破いて中身を確認する。
「そんなわけないでしょ」
 淡々と言い放つ由香ちゃんに遠慮はない。
引き戸が開いて柏木先生が入ってきた。
正樹君はその箱をあたふたと机の下に隠す。
 由香ちゃんは、スクールバッグを自分の机の傍らに置きながら僕の隣の席に着いた。
 ふと視線を感じ振り向くと由香ちゃんが横目で僕の顔を窺っている。
「和也はちゃんともらえた?」
おもむろに由香ちゃんが訊いてくる。
「二個もらった」
返答に抑揚がないのは仕方がない。
「へえ~、良かったね。で、誰から?」
「内緒に決まってんじゃん」
 僕は目線を窓の外に向けて逃げようとしたのだが由香ちゃんは追いかけてくる。
「お母さんとお姉さんでしょ?」
 わかって訊いてきたに違いない。去年も一昨年も同じような問答をしたのだから。
「相変わらずモテないね~」
軽く嘲りを含んだ語調が僕の胸に沁み渡る。
 由香ちゃんとは保育園からの幼なじみで小学校ではずっと同じクラスだった。それは中学生になってからも続き、僕がモテないことをネタによくからかわれた。
「しょうがないわね~、じゃあ今年もあたしので我慢しなさい」
 妙に色っぽい口ぶりで僕をなだめながら、さっき正樹君に渡していた箱と同じようにラッピングされた箱を由香ちゃんが差し向けてきた。僕は右手を伸ばす。
「どうも」
掠れた声を出してそれを受け取った。
「こら、川原君、佐藤さん、何してるの?」
 担任に怒られた。そして箱を受け取る瞬間をクラスメイト全員に見られた。自分の顔が紅潮していくのがわかる。
 こういう場面を見られても全く動じない平気なタイプと、恥ずかしくて顔も上げられないタイプがいるとするならば僕は後者だと思う。それも公ではなく教室の隅でひっそりと行われたこととなると周りは余計に囃し立ててくる。
「なんだよ和也、由香から何もらったんだよ?見せろよー」
 廊下側の最後尾の席からぬくっと顔を持ち上げて、冷やかすように裕太が大きな声を出すと、周りも追従するように騒がしくなる。
「何でもないわよ」
 口ごもっている僕の代わりに由香ちゃんがシッシッと追い払う手振りで裕太をあしらっている光景は、今に始まった事ではない。
 クラス一のお調子者で人気者の裕太の事を僕はあまり好きではない。裕太とも保育園からの腐れ縁で昔から由香ちゃんと3人で近所の公園で遊んでいた。小学校を卒業する頃までは仲がよかったのだけれど、中学生になると僕に対する圧が強くなり、何かにつけて小バカにしてくるようになったのだが、由香ちゃんはそれを見るといつも僕を庇って裕太をたしなめていた。
 僕が由香ちゃんに淡い恋心を抱くようになったのもその優しさに触れてからだった。
「俺の分はなかったのになー」
 裕太がわざとらしくこちらに聞こえるように言った声の裏には若干の寂寥と嫉妬が混ざっていた。僕は勝ち誇った気になった。
「こら、静かにしなさい。何をそんなに騒いでいるの?帰るのが遅くなるわよ」
「だって先生今日バレンタインデーだよ」
 正樹君が浮かれたように微笑みながら僕をちらちら覗いている。
「それがどうしたの?あなたたちもあと少しで高校生になるのよ。バレンタインくらいでこんな大騒ぎしないの」
「じゃあ先生は好きな人にチョコとか渡したりしないんですかー?」
 廊下側の最前列、僕から見たら対角線上の席に座っている茶髪の楓ちゃんが挙手しながら唐突に参戦してきた。
「あなたたちには関係ないことよ」
柏木先生は華麗に質問をかわす。
 楓ちゃんはふて腐れたのか、マフラーの中に鼻まですっぽり顔を埋めて「教えてよぉー、つまんないじゃんっ」と言ったのち、顔をすぐに出して両手を口元に寄せると「あ!ひょっとして彼氏に-」
「さあ、ホームルームやるわよ」
 柏木先生は楓ちゃんの言葉を遮って歯牙にもかけずに煙に巻いた。
僕は楓ちゃんの言葉の続きを想像してみた。
 柏木先生にも彼氏くらいいると思う。透き通った白い肌に上品な顔立ちで、僕が入学した時に大学を卒業してすぐ着任したはずだったから年齢も二四、五くらいの、まさに年上の綺麗なお姉さんって感じなのだ。
ただ生真面目でお堅い雰囲気を纏っているので、こういう話しを露骨にするのはあまり気が進まないタイプかもしれない。
 でもそんな女の人でも今日という日は彼氏に会ってチョコとか渡すのだろうか、柏木先生の彼氏はどんな人なのだろうか、と考えているうちに僕は瞑想に耽ってしまった。
「何ポカンとしてんの?さっきから」
 はっと右を向く。由香ちゃんが目を細めて訝しげに僕を睨んでいた。
「いや、あの、別に、何でもないっす」
「なんかさ、ずっと気持ち悪い顔してたよ」
「何でずっと見てるんだよ」
「だってすごい気持ち悪かったんだもん。写メ撮ればよかった」
 黒板に連絡事項を記している柏木先生に聞こえないようにひそひそとしてはいるが、由香ちゃんは本当に遠慮というものを知らないということを今さらながら思い知らされた。

「それではまた明日。気を付けて帰ってくださいね」
 柏木先生の合図でホームルームが終了し、一斉に全員が席から立ち上がるのを確認してから僕は静かに腰を持ち上げた。
「じゃあまた明日ね、バイバイ」
 由香ちゃんの視線は教室を出ようとする大群に向けられているが、おそらく僕に言っているのだろう。
「バイバイ」
と僕が返す前に由香ちゃんはそそくさとスクールバッグを肩に掛け、廊下に向かって3歩ほど進んだところでこちらを振り返った。
「ちなみに柏木先生今夜デートだって」
 由香ちゃんはシニヨンを軽くポンポン触りながらさらりと言う。
「え、何でそんな事知ってんの?」
「お昼に職員室行ったら教えてくれたの。がっかりした?」
「がっかりなんかしてないよ」
「な~んだ、落ち込むかと思ったのに」
 さっき僕が何に対して瞑想していたのか由香ちゃんにはわかったらしい。それほど驚かなかったけれど。由香ちゃんはよく僕の心を見透かしてくるのだ。
「何の流れでそういう話になったの?」
「それはね、内緒」
 そう言い残して由香ちゃんは小走りで教室を出て行った。
 僕は由香ちゃんの背中を見送り、スクールバッグを肩に掛けて一番最後に教室を出た。

 校舎裏の桜は寒々とした空の下で冷たい風に耐えながら、芽吹くのを待っているようだった。もうすぐ卒業するんだなと漠然と考えながら、吹奏楽部の旋律を背にして校門をくぐり抜ける。
 柏木先生は今夜デートをするらしい。あれだけ上品な女の人なのだから、きっと彼氏も恰好良くてしっかりした人なんだろうな、と思う。
 由香ちゃんには好きな人はいないのだろうか。ふとさっき由香ちゃんから渡された箱の事を思い出した。去年も一昨年も同じような箱をもらっているので中身は見当がついているのだが、もらえるだけでも有難い。
スクールバッグから取り出して包装紙を解いてみる。すると箱の表面に正方形の紙切れが貼り付けてあり、裏に何か書かれてあった。紙切れを剝がして裏返すとそこには油性マジックで綴られた文字が浮かんでいる。あまりにも簡易的に書かれてはいたけれど、それを読んだ僕は心がざわめきだし、居ても立ってもいられなくなって駆け足になった。
どこまでも駆けて行けそうだった。
淡い恋心を乗せて。

寒々とした空の下で、桜は芽吹くのを待っている。