吉田松陰生誕180年 | 一水会活動最新情報!

吉田松陰生誕180年

 5月5日といえば「子供の日」ですが、それよりも正確には端午の節句です。


古来より端午の節句には菖蒲を魔よけなどに用いていましたが、


鎌倉時代頃、菖蒲の読みが「尚武」と音が同じことから端午は男の子の節句とされ、


男の子の成長を祝い健康を祈るようになったということです。


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そんな「尚武」の風を生んだ日本の武士達ですが、幕末期に登場し、


その武士達の道徳や兵学を教授する家に育ち、志のまま行動し、


自らの行動が制限されると、こんどは優秀な人材を育て上げ、


30年の生涯を駆け抜けた吉田松陰が、今年で生誕180年を迎えます。


 吉田松陰といえば尊皇攘夷の思想家ですが、彼の一生を見るに、


その行動の原動力となった高い道徳性は注目に値します。


「約束は守る」、「決めた事は必ず実行する」というシンプルなものですが、


それを徹底させることとなると、なかなか難しいものです。


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 しかし、松蔭は地方の同志との約束の期日を守るために、


それに間に合いそうもない藩の許可も無視して出奔し、武士の身分も、家禄も失いました。


また、日本に来ていた米国のペリーの艦隊に乗り込み密航を企てたのもそうした道徳性の故です。


一説にペリーの暗殺を目論んだとも言われますが、そうすることが所属する長州藩のみならず、


広く日本のためになると考えた以上は、行動に移さねばならなかったのです。


 国禁を犯したため、とうとう自由を制限されるようになってしまった松蔭ですが、


松下村塾で、その高い道徳性をもって、まさに後の日本を動かす人材を育成しました。


高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎、野村靖らは有名です。


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その他優秀な人材を育てましたが、幕末の動乱の中で、


塾生の約半分が、師匠が乗り移ったかのように厳しく己を律し、妥協の無い行動で命を落としました。


生き残った塾生たちの明治期での活躍は知られていますが、驚くべきは師匠である松蔭の感化力でしょう。


松下村塾の塾生は全国から集められた優秀な生徒という訳ではありません。


近隣にいた平凡な若者たちが殆どでした。


それを、たった1年2ヶ月程度の教育で、筋金入りの志士に育てたのです。


 現代の我が国でこれだけの教師を探し出そうとしても、恐らく無理でしょう。


教師の存在よりは、根本的にそうした人材が生まれる土壌が無いからです。


戦後民主主義が教えた、国家よりも何よりも個人を上位とする思想の弊害です。


松蔭の再来を待つのではなく、松蔭の再誕のための土壌を作り直すしかないことに悲しみを覚えます。


吉田松陰生誕180年に際し、ふと、そんなことが頭をよぎりました。