日本人よ「国民」たれ | 一水会活動最新情報!

日本人よ「国民」たれ

 評論家の西部邁氏、京都大学教授の佐伯啓思氏が顧問を務める、


オピニオン誌『表現者』(隔月刊)2010年1月号が12月16日発売されました。


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1月号では、『「国民」とはなにか』という特集が組まれ、


そのうちの座談会『日本人よ「国民」たれ』に、


評論家の西村幸祐、明星大学日本文化学部教授の前田雅之、


関東学院文学部教授の富岡幸一郎の3氏と共に、弊会木村代表が参加しています。


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 さて、座談会の内容ですが、


民主党政権を誕生させた現在の状況ををみると、


国家を語る前に「国民」とは何かを問題設定する必要がある、と言う切り口から始まり、


民主党政権発足以来の政策を見直しながら、国民とは何かを論じています。


 まず、民主党政権の国家の解体を目指すような政策は、


そもそも鳩山首相や小沢幹事長に国民意識の無さがそれらの問題を生みましたが、


しかし、国民意識の欠落は自民党政権時代から続いていることであり、


日本人はもともと国民性が薄いという指摘がなされます。


 端的な例として領土問題を取りあげ、長崎県の対馬の問題などが紹介されました。


18年前から、対馬の「厳原港祭」の名称を「アリラン祭」に変更し着々と対馬の韓国化を進めながら、


同時に竹島の要塞化と日本海を「東海」などと名称を変えるなどの策動が進む中、


それを助長させるような韓国におもねった番組をNHKが放送してしまうなどの例から、


領土意識に無自覚な、そして国民意識に無自覚な戦後日本の姿を浮かび上がらせ、


生活第一で、前提はどうでもよく、どんな手でも儲けさえすればよい、


という風潮に流れやすいことを懸念しています。


 また、ナショナリズムを「国民主義」と定義した時、


60年安保くらいまでは残っていたナショナリズムが、以降は無くなってしまったとして、


いまだに米国への従属を続ける日本の戦後体制を分析。ナショナリズム無き日本が、


米軍という外国の軍隊の基地が国内に存在するという、本来は異常な状態を受け入れてしまっていること、


技術力では米国の上を行く水準でありながら、


国家と企業が一体となって戦略的に展開できないことなどを挙げています。


 座談会では、日本の「国民」意識について、そもそも島国で地続きの隣国が無いという条件の中、


自然的環境から人間関係や共同体意識が生まれたため、国民意識の希薄な性格を形づくってきたこと。


それが、明治以降、大東亜戦争までの帝国主義の時代に、対抗上、否応無く国民意識を育成したが、


敗戦によって米国支配の下で、また、国民意識の希薄な国に戻ってしまったことを論じます。


厳密には日清戦争という対外戦争から国民が創出され、「日本」をつくっていったとの分析です。


 世界的な潮流にも言及して、EUの登場は、国民国家をこえるものと言われましたが、


それがここ五年程からは国家の主権が論じられ、


文化、伝統、歴史、言語、アイデンティティなどを擁護する動きが出はじめていることなどが報告されています。


しかし国民主義が現れるには、それぞれの時代の流れがあり、日本の場合、日清戦争などを契機に、


明治から昭和にかけて異文化との対抗概念を確認していく作業が行われました。


そういった国民意識と、本来自然的環境から生まれた日本人の共同体意識や共通感覚の間にギャップがあり、


国民意識を喚起させるにはどうしても対外的なものを必要とするため、


現在では、米国や中国との関係にそれを求めるしかないとしています。


それに文化的には、日本の社会から正月や節句等、小さなことではあるが、


日常性から国家と国民を結ぶ共同体的作業が必要であると論じています。


 最後に座談会では国民主権に触れ、国民主権というものがありえるのかということ、


そして国民主権になった途端、国民批判が出来なくなり、


それまでの共同体的な常識や良識が崩れてきていることを確認し、


そのことが、非社会性を生み出し、今の若い世代の多くにその症状がみられることから、


もはや、国民以前の問題にまで発展していると危機感を強めます。


 座談会の最後に、日本浪漫派の詩人保田與重郎の「人間である前に日本人であれ」という言葉を紹介して、


人間や人権の前に日本人であることが大事だとうことに重大なメッセージ性があるとして、


日本人であるという確認作業の必要性とその契機について論じています。


それが、教育なのか、政治なのかということはありますが、思想的にも「人権」「平和」「自由」を再定義し、


「日本人の」「国民性の」といった前提とした言葉を再定義せねばならないとして、座談会を締めくくっています。


 この座談会は、「国民」という概念を通じて、現状分析がなされており、


日本における「国民意識」の歴史的な形成過程など的確な指摘がなされています。


国民意識が、異文化との対抗概念を確認して行く作業によって目覚めるならば、


たしかに、民主党政権下での対米関係の見直しはその契機になるのかもしれません。


 しかし、戦後の「個人」に価値を置いた社会の中で、いかにそれを契機と見ることが出来るか、


または、そういった感覚を育てることができるかは大きな課題として残ります。


我々も、その課題の重要性を認識して、この問題に取り組んで行きたいと思います。