ダーウィンの種の起源。ちなみにそれは1859年に出版されたが、それは即時には賞賛をうけなかった。人類がサルの子孫かもしれないという(私たちは神から自身に似せて作られたのでなく)考え方は、多くの人にとって衝撃的で、非常に不快だった。しかし始まりからダーウィンの偉大な考えには擁護者もいた。

トーマス・ヘンリー・ハクスリーやフランシス・ゴールトンのように、有能で活発な人々がダーウィンの主張を支持した。

1869年、ダーウィンの傑作の出版から10年後、ゴールトンは彼自身の本:遺伝する才能 を出版した。ダーウィンは、身体的特徴(長い首や強い嘴といった)が世代から次世代へと伝えられていき、もしもそれが有益ならだんだん一般的なものになるということを示していた。ゴールトンは才能がしばしば家族間で伝わるように見られることに気づき(バッハ家族の音楽の才能のように)、また、彼の本の中で、知性的な能力が両親から子供たちに伝えられると主張した。

ゴールトンによれば、知能は受け継がていく。彼はまた、知的な人々には遅く結婚し、より少数の子供を持つ傾向があり、まさに彼らはこの事の彼らとその子供への利点を理解できるほど賢いからである、と主張している。

しかしもし、自然の選別について、ダーウィンが正しければ、このことは高い知性は(それはより少数の子供に通じるので)次第に消えていくことを意味している。人間という種は次第におろかになっていくのだ。この「レベルの低下する効果」を避けるために、ゴールトンは健康で知的な人々に多くの子供を持つよう奨励することはきわめて重要だと信じていた。彼の長い人生の残りで彼はこの考えに賛成で本を書き働いた。彼はこれへの新しい言葉:優生学 さえ作った。

ゴールトンの優生学は肯定的な計画であって、よい遺伝子の増加を奨励していたが、それはすぐに否定的な相対物を持つようになった。否定的な優生学が、ちなみにそれは悪い遺伝子の増加を防ぐことを目的としており、ヨーロッパとアメリカの両方で急速にちからを持つ運動となった。

1910年にセオドア・ルーズベルトが「すべての善良な正しい型の市民にとって、彼または彼女の地後世に残すことは不可避の義務である。」と言って肯定的な優生学の重要性を強調した。同じ年にウィンストン・チャーチルはイギリスで義務的な不妊法に賛成する議論をした。

1932年時点で、30のアメリカの州が精神的にまたは道徳的に劣っていると考えられた人々の義務的な不妊を規定する法律を持っていた。その当時多くの人々は犯罪性や不道徳な行いは子供たちへ彼らの両親から遺伝すると信じていた。(「生まれか、育ちか」の論争はまだ続いているが、今日の多くの人々は教育と環境がより大きい影響力を持つと信じている。)それゆえ、義務的な不妊の法律は、精神的に問題があったり障害がある人々や、アルコール中毒症やてんかんのような身体的問題を持つ人々だけでなく、もし彼らが精神的、身体的に普通であっても、犯罪者や売春婦のように不道徳だと考えられた人にも適用された。

同じころ、知性の試験が人気になっていた。ヘンリー・ゴダードのようなアメリカの心理学者たちが性格や能力を測る新しい試験を考案した。多くの心理学者たちがこれらの試験に非常に自信を持っていて、彼らは知性を正確かつ客観的に測ることができると信じていた。ひとつの有名な事例に、キャリー・バックという女性が、彼女の娘が知能が低いと診断されたために、彼女の意志に反して不妊措置をとられた。この診断は、その娘がたった六歳のときに民生委員の短い訪問によって行われた。キャリー・バックはバージニア州を訴え、この案件はとうとう最高裁判所の前まで来た。裁判所はバージニア州の主張を認めることを決めた。

合計でおよそ10万人のアメリカ人がこれらのほうによって不妊措置をとられた(この法はいくつかの州では1970年代まで続いた。)ドイツでは1930年代、40万人ほどの男と女が同様の法の下義務的な不妊措置をとられた。また、潜在的な考え(政府がどの遺伝子がよいかを知る英知と彼らが悪いと考えた遺伝子を壊す権利を持つという考え)が最終的にユダヤ人、ジプシー、同性愛者やその他に反対するナチスの運動を導いた。

この最悪の歴史ゆえに、優生学という言葉は今となってはとても暗い含みを持っている。しかし、遺伝子プールの向上と保護という考えはなくなってはいない。進化論が確立されるにつれて、また私たちの遺伝子を制御する力が増大するにつれて、優生学の運動によって提唱された課題はさらに切迫したものになっていく一方だ。

ここに想像上の事例がある。ひとつの遺伝子(私たちがスポーツの才能と呼べる遺伝子)があって、それは長い型と短い型の二つになると考えてみましょう。人口の50%が長い型を持っていて、平均または平均以上にスポーツができる傾向にあると仮定します。もう片方の50%が短い型を持っていて、平均または平均以下にあると仮定します。

短い型を持つ人々は、長い方を持つ人々と同様に健康で、知的で、活発で、また彼らは同じくらいこどもを持ちますが、長い型を持つ人々は走ること、重量あげ、玉を打つことにおそらくより長けています。

今、生まれていない赤ん坊がどちらの遺伝子の型を持つか見分けるのが簡単になって、短い型から長い型に簡単に変えられると仮定します。今から親になる人は、もし彼らが望むなら、どちらの型を彼らが本当に持つのか告げてもらうことができます。彼らの医者が彼らにこう告げるかも知れません。"あなたたちの赤ん坊はスポーツ遺伝子の短い型を持っています。スポーツに長けているかもしれませんがもし私たちがこの遺伝子を変えればよりスポーツについて長けていそうです。あなたは私たちにこれを変えて欲しいですか?"

遺伝子の長い型(私たちが仮定している)は自然に生まれ、そして不利益や危険を伴いません。赤ん坊の遺伝子を変えることは決して危害を赤ん坊に加えません。ただひとつの変更の効果は、スポーツに長けるよりよい可能性です。あなたはこの例の両親は、なんと言うと思いますか?

さて、さらに一歩踏み込んだ例を取り上げてみましょう。ある政府が国際的なスポーツの成功が重要だと考えていたと仮定します。おそらく、オリンピックで金メダルを取ることが彼らの国への観光客を集めることを助け、彼らの国の人々に誇りや幸せを感じさせると思うでしょう。彼らは病院でその変更について聞かれたとき、両親に"はい"というよう奨励するべきでしょうか? このような、政府にとって遺伝子を変えられた子供たちに、特別な子供手当て、例えばスポーツ奨学金を提供することは間違いでしょうか?

この難しい質問に対するひとつの返答は、もし結局、短い型が有益だと判明したなら、私たちはいつでも将来の赤ん坊を長い型から短い型に戻すことができる、と言うことです。肯定的な優生学の長い型の広まりを助けることの課題は、元に戻せるようにすることです。違う見方をすれば、遺伝子の多様性、それ自体はよいことです。もし新しい病気(エイズのような)が生まれて、短い型がそれから守ってくれると判明したらどうでしょう。

別の自然なこの質問への返答は、結局私たちが干渉するべきでないとすることです。(人は神の役割を演じるべきではない)しかし、私たちが小さな遺伝子の介入をしない限り、赤ん坊がひどい病気とともに生まれてくると発見したと仮定します。ただ単に、私たちが多くの力を持ちすぎることにためらいを感じるからといって予防できる病気とともに赤ん坊たちが生まれるままにすることは正しいことなのでしょうか?

確実なことが一つあります。私たちは知っていることを発見してない地点に戻せません。新しい知識は、難しく新しい選択を作り、私たちの善悪の判断力はしばしば、止まることのない発見のペースについていこうと奮闘します。進化論や優生学のような考えの歴史を理解することは、これらの選択を決して容易にはしない。しかしそれは、自分たちと同様に知的で善意ある人々の過ちを、そして、昔の人々のような過ちを避けるための大きな可能性を与えてくれます。