記憶の中で、あなたが初めて目覚めた時まで遡ってみて欲しい。あなたが初めて生きることを始めた子供時代のあの素晴らしい瞬間ーーまるでテレビのスイッチがつけられ、今まさにとてつもなく重大なニュースが伝えられようとしているかのように、音と光景が突然押し寄せてくるようなあの瞬間へと。私は。自分が太陽の光と柔らかで新鮮な空気を思い出したような気がする。そして次の瞬間、私は、自分が誰なのか、生きていることがどんなに素晴らしいことかを知った。

 

私個人の人生の最初の記憶について思い出すことは、ガイアについて理解しようとする我々の探求にとって、何の関係もないように思われるかもしれない。しかし、そうではない。科学者として、私は現象を観察し、計測し、記述する。こうしたことができるようになるためには、まずもって私は自分が何を観察しているのかを知っている必要がある。広い意味で、ある現象を観察する時、それがなんであるかを認識することは必要でないかもしれないが、科学者は、殆どいつも研究対象について予め何らかの考えを持っている。子供のころ、私は生命を直感的に認識した。(何かあるものが生きている、と直感的にわかった。)大人になって、地球の奇妙な大気ーーまるで狐と兎が同じ穴にいるみたいに、酸素とメタンガスといった相容れない期待が混ざり合っているーーについて考えていて、私は、正式の科学用語でガイアを記述することができるようになる遥か以前から、ガイアを認識し、ガイアの存在を直感せずにはいられなかった。

 

 ガイアの概念は、生命の概念と全面的に結びついている。したがって、ガイアを理解しようと思ったら、まず生命というあの難しい概念を探求する必要がある。

 

先ず、比較的単純な定義と分類から出発してもいいだろう。木や馬、それにバクテリアのような生き物でさえ簡単に知覚し、認識することができる。それは、そうしたものが壁、膜、皮膚あるいは蝋質の覆いによって囲われているからだ。生きているシステムは、エネルギーを直接的に太陽から利用し、間接的に食物から利用しながら、自己の統一性、全体性を維持すべく休みなく活動している。それらが成長して変化し、成長して繁殖する時にも、我々は目に見える、認識できる存在としてそれらを見失うことがない。成長し、変化する数えきれないほどの有機体の個体(生物)が存在するが、それが共通に持っている特徴によって、我々はそれを分類し、それらが孔雀や、犬や、小麦といった種に属することを認識することができる。約一千万の種が存在すると推定されている。どの個体も、エネルギーと食物を得ることができず、自分の統一性を保つための活動ができなければ、それは死にかけている、あるいは死んでいるということが我々にはわかる。

 

理解しようとするうえで大事なステップは、生き物の集合体の重要性を認識することである。あなたも私も器官と組織の集合から成り立っている。心臓や肝臓や腎臓の移植の恩恵を受けた多くの人々が、こうした器官が暖かく保たれ、養分を与えられたなら体から独立して存在できるということを雄弁に証言している。器官そのものも何十億という生きた細胞から出来上がっていて、これらもそれぞれ独立して生きることが出来る。それから、細胞自体も、嘗て自由に生きていた微生物の共同体である。動物の細胞のエネルギーを変形させるもの(ミトコンドリア)と植物のもの(ミトコンドリアと葉緑体)はどちらも嘗ては独立して生きるバクテリアだった。

 

生命は社会的なものだ。生命は共同体や集合体の形で存在する。物理学的に、集合体の属性を記述する便利な言葉がある。即ち、束一性という言葉だ。これが必要なのは、単一の分子の温度や圧力を表現したり測ったりする方法がないからである。温度とか圧力というのは、分子が集まって、知覚できるくらいの大きさになった時に持つ”束一的”な属性であると物理学者は言う。生きたものの集合体は、なんでも、それらの中の単一のものについての知識からは予想もつかないような性質を見せる。我々は、そして他の動物は、環境がどんな温度であれ、一定の温度を保とうとする。この事実は、人間のたった一つの細胞を観察することからは決して導き出すことはできない。このように一定の温度を保とうとする傾向に初めて気づいたのは19世紀フランスの生理学者クロード・ベルナールだった。今世紀になってからのベルナールの後継者であるアメリカ人ウォルター・キャノンはこれを”ホメオスタシス”、即ち「体の知恵」と呼んだ。ホメオスタシスは生命の束一的な性質である。

 

人間のような高貴な存在が、相互に絡み合った複雑な一組の細胞の共同体によって成り立っているという考えを、我々は、何の問題もなく理解する。ある国家や部族が、一つの存在として、そこの人々や、彼らが占める領土から成り立っていると考えることも難しいとは思わない。しかし、生態系やガイアなどといった大きな存在についてはどうだろうか?我々は、すべての生き物、空気,海、それに岩がすべて一つに組み合わさってガイアとなっている、真に生きている惑星を一人一人の個人として実感するために宇宙飛行士の目を通して直接的に、或いは代わりに視覚メディアを通じて間接的に、宇宙から地球を見ることが必要だ。

 

生きている惑星の名前と、ガイアとは生物圏に於いては同義語ではない。生物圏は生き物が普通に存在する地球の一部として定義される。ガイアは個々の生物の集合体である生物相と同じではない。生物相と生物圏は部分的に纏められるが、ガイアの全てではない。貝殻が蝸牛の一部であるように、岩や空気、そして海もガイアの一部である。ガイアは生命の起源まで過去に遡り、生命が存続する限り未来へと広がる連続性を持っている。ガイアは全体の惑星の存在として、必ずしも個々の種または共に生きる生物の集団を知ることによって認識できるわけではない特性を持っている。

 

ガイアの仮説は、私たちが1970年代に紹介したものだが、大気や海、気候や、地球の地殻が生き物の行動が原因で生命に快適な状態で規制されていると仮定した。具体的に言うと、ガイアの仮説は、気温や酸化状態、酸度、岩や水の側面をいつでも一定に保ち、ホメオスタシスは、生物相によって自動的かつ無意識に操作される、活動的なフィードバックプロセスによって維持される。太陽光エネルギーは生命の快適な状況を維持している。その状況は短期間一定の時のみ、生物相の変化する必要性と同期して進化する。生命とその環境はとても密接に結びついているので、進化は、有機物や別個の環境ではなく、ガイアに関係している。

 

あなたは、地球と同じくらい大きくて、見たところは無生物に見えるものが生きているのである、という概念を呑み込むのは難しいかもしれない。確かに、地球はほぼ完全に岩石で、殆ど熱で白熱している、とあなたは言うかもしれない。私は、ジェローム・ロススタインという、物理学者のお陰でこのことや他のことについて教わっている。生きている地球の概念についての思慮深い論文で、彼はもし私たちが巨大なセコイアの木を心に浮かべさせておけば、困難は少なく出来ると彼は述べた。その木は確かに生きているが、99%が枯れている。その大きな木は生きている細胞が薄い層の祖先によって、リグニンとセルロースで作られた、古代の枯れ木の尖塔である。地球ははなんと(その巨大な木に)似ているのだろう、そしてマグマの遥か下の岩石を構成している原子の多くは、嘗ては私たちすべてが生まれてきた先祖の生命の一部であると、私たちが気づく時は尚更そうだ。

 

大気の化学的組成は定常状態にある科学的平衡の予想とは何の関係もない。現在大気を酸化させているメタンの存在、亜酸化窒素、そして窒素でさえ、化学の法則の大きな違背を表している。この規模の不均衡は、大気が単なる生物学的生産物ではなく、生物学的構造であることを示唆している。生き物ではないが、しかし、猫の毛のように、或いは鳥の羽、もしくは蜂の巣の紙のように、望まれた環境を維持するために設計された生活システムの拡張のことである。