17世紀のヨーロッパは興味深い地域だった。突然、3つの大きな革命(社会、経済、科学)が起こった。政治に於いては、力は土地を持った貴族階級から活気に満ちた中産階級の社会へと移行し始めた。経済に於いては、17世紀は資本主義の誕生があった。そして科学では、新しいメソッドが目覚ましい成功をもたらした。科学者たちは自然から目的を発見することをやめ、規則正しさのみを調査し始めた。今、21世紀でさえ、これらの基本的な変更は私たちの生活のすべての側面に影響を及ぼしている。それどころか、これらの影響は常により強く成長している。

 

多分科学革命のもっとも偉大な成功は万有引力というニュートンの説だ。ニュートンは、どうやって大砲の軌道を描いた法則が惑星のの軌道を予測できるのかを、ガリレオの地上の力学(の法則)と、ケプラーの天空の物体に当てはまる法則とを統合して示した。1組の単純な法則で重力に影響された物体のスピードと軌道を予測できるというのだ。

 

突然、人間はなんでも予測できるように見えた。ニュートン(の説)のほんの百年以上後にラプラスというフランスの科学者兼数学者が、自然界を生き生きとさせるすべての力を一瞬のうちに知った知性を想像した。この知性は、ラプラスによると、全宇宙の動き・・・1番大きな体の動きから一番小さな原子の動きまでも予測できるというのだ。

 

それなら、あなたが水のグラスを口に持ち上げた時、あなたの腕の動きはどうであろうか?喋った時のあなたの舌や喉頭の動きはどうであろうか?それらの動きも予測出来るのか?そしてもしそれらが予測できたなら、それらは自由ではないことを意味しているのか?あなたは言動の責任がないことを意味しているのか?

 

ある夏の日、シカゴで、2人の裕福な少年が車を借りて、しばらくの間走り回り、それから、学校から家に向かっていたより若い友達を車に乗せた。2人は誰かを殺すことを決めた、しかし誰を殺すかは特に決めていなかった。彼らのうちの1人(リチャード)は、鑿を使って腕を頭上に振りかぶって車に乗せた少年を殴り、そして新鮮な死体をバックシートへ押し込み、死体に毛布を巻いた。しばらくの間彼らの近所を走り回った後、町の外に死体を搬送して、身元確認を妨げるために死体を裸にし、町の南方30㎞で死体を投げ捨てた。そして彼らはシカゴに戻り、レストランで夕食を食べて、別の少年(ネイサン)の家に行き、遅くまで起き、話していた。次の日の朝、彼らは車を不完全に掃除して、レンタカー会社に車を返した、そして普通の生活を続けた。

 

間もなく彼らは捕まった。彼らのうちの1人が死体を捨てた場所に珍しい角製の縁の眼鏡を落としたのだ。警察に尋問され、急いで準備した話が崩壊し、彼らは告白した。

 

その事件は主に2つの理由でマスコミで話題となった。1つ目に、少年たちは殺しへの明確な動機を持っていなかったからだ。彼らは経験のために殺しを行ったと言った。2つ目に少年たちは(彼らの被害者も同様に)きわめて裕福な家庭出身であった、そして多くの人々が、彼らの親が、彼らに刑罰を免れさせる費用の掛かる弁護士を雇うことを恐れた。新聞は最新の展開を一面にし、死刑を要求した。

 

有名でリベラルな弁護士クラレンス・ダローは、少年たちを絞首刑にすべきだという一般世論と戦うために事件を引き受けた。ダローは死刑を嫌い、それは恐ろしすぎて国には引き受けられないものだと言った。

 

ダローの主張は、少年たちは心理的に異常であったため、計画を立て、人殺しができた、だから彼らは異常性への責任がない(なぜならそれは彼らが手に負えない遺伝子もしくは教育的要素の結果であるからだ。)、だから責任がなく、罰せられないというのだ。社会は確実に彼らから守られるべきだが、彼らは処刑されるべきではない。

 

ダローは少年たちの異常性を立証させるために彼らと面会する数名の心理学者を手配した。心理学者は、彼らが奇妙なことに普通の感情反応が欠如していることに同意した。24時間に渡る最終弁論で、ダローは感情欠損の考えられる原因を強調した。ネイサンは親との接触が殆どない集中的な教育を受けた。リチャードは(ダローが推測するに)多かれ少なかれ遠い先祖からの欠陥のある遺伝子を受け継いだに違いないかった。兎に角、彼らの状況の原因が何であれ、彼ら自身は殺しの責任がなく、それ故に彼らは非難されない。

  

ダローの弁護の最終弁論の抜粋がここにある。

 

私は2つの物事のうちの1つがリチャード・ローブに起きたことを知っている。この恐ろしい犯罪は彼の有機体にもともと備わっていて、そしてそれは幾つかの祖先から遺伝したもの、もしくは彼が生まれた後に教育と調教を通じて起こったものだ。

 

どんな遠い祖先が彼を堕落させた種を蒔いたのかもしれないというのは私は知らない、そして彼に到達するまで幾人の先祖が引き継いできたのか私は知らない。私が知っているのはそれは本当であり、私が正しいとは言えないであろう生物学者がこの世にいないことだけだ。

 

私は知っている、裁判長閣下、この全宇宙の生命のあらゆる原子は繋がっている。小石は海に投げるとどうしても水滴を乱してしまうことを私は知っている。あらゆる影響は、意識下であろうと無意識であろうと、すべての生きている有機体に作動し、反応する、そして誰も非難をやめさせることが出来ないのも知っている。

 

生まれは強大で、無慈悲である。それは独特で不可思議な方法で働く、そして我々はそれの被害者だ。私たち自身とはあまり関係がない。この少年はそれと何の関係があったのか?彼は彼自身の父親ではないし、彼自身の母親でもなく、彼自身の祖父母でもない。彼は自分自身を律することが出来なかった。尚且つ彼は代償を払わねばならない。

 

彼は感情機能と感情反応がなく生まれてきたために責任を問われるのか?彼の機構が完全でないから責任を問われるのか?

 

まるで人間の行為が自然のルールによって影響されずに、制御されることがないかのように、まだ私たちは進み続ける。まるで犯罪が原因でないかのように私たちは犯罪を取り扱う。、犯罪は病気と同じくらい確実に原因があり、異常な状態を合理的に扱う方法は原因を取り除くことであるというのは弁護士は決して思いつかない。私は我々が20世紀にいるとは殆ど想像しない。それでも、どんな生まれであっても、どんな人生であっても、どんな教育が行われても、あなたは少年たちを絞首刑にすべきだと、真剣に言う人がいる。

 

この説得力のある哲学的な主張に加え、ダローは、別の、法律上の、死刑に反対する主張を持っていた。10年前、

シカゴ市で殺人の罪を認めた、450人のうちのたった1人の男が処刑され、彼は40歳であった。(少年たちは殺人事件当時は18,17歳だった。)これらの主張によって防御が固められ、裁判官は処刑についての激しいメディアの圧力から何とか抵抗した。リチャード・ローブとネイサン・レオポルドは終身刑を宣告された。

 

しかしここでは何かが間違っている。すべてのことに原因があるというアイデアは決定論と呼ばれた、そして、もし決定論が正しいなら、私たち全てがあてはまる。それは犯罪者のみに当てはまり、裁判官には当てはまらないとは言えない。それは、悪い子供時代には当てはまらないが、良い子供時代にも当てはまらない、また、異常な性格には当てはまらないし、普通の性格にも当てはまらない。裁判官がこう言ったと仮定しよう、「私の遺伝された生まれと、教育のせいで、私はあなたの(弁護の)依頼者に有罪であると言わざるを得ない、そして彼らに死刑を宣告せざるを得ない。」ダローは何を答弁することが出来ただろうか?

 

実際、もし裁判官が「これらの殺人者の代わりにあなたが行った弁論は、あなた自身の背景と、共謀してあなたを生み出した無限の力によって決定された。あなたはそれの責任がない、そして私たちはそれを考慮する必要がない」と主張したら、ダローは何を言えただろうか?

 

決定論の問題は、今日哲学が直面している最も重大で最も難しい問題の一つである。私たちは、当然ながら私たちは自由であると信じている傾向がある。しかし、ケプラーや、ガリレオ、ニュートンによって作られた近代の科学的な世界観では、自由な場所がないように見える。自由は科学誕生以前の信仰が作用している迷信なのか?私たちはそれ抜きで人間の生活を理解できるのか?