すてきな先生・ズと神戸のフツーの人たち-1 | イッセー尾形・らBlog 高齢者職域開拓モデル事業「せめてしゅういち」

すてきな先生・ズと神戸のフツーの人たち-1

2015921

すてきな先生・ズと神戸のフツーの人たち

北神区民センター ありまホール

 

新しいけれど、どこにもエッジがきいていない。演じ手がその人になりきっているというか、もともとその人がほぼその人ぽい誰かを演じている芝居。毎日の暮らしを振り返ると、あ、こんな感じで暮らしているよな、という感じ。

「あなたが気づかない生活図鑑」みたいな舞台。

 

演じ手は素人。4日の稽古のうち、1日しか出てこなかった人も、ままいる。そうやって、もう20年演劇の素人を対象にして超短期稽古芝居公演付き、という試みを森田雄三、清子は続けてきた。100人をはるかに超える参加者のこともあったし、4、5人が入れ替わりやってくる稽古もあった。

 

北神戸のワークショップは2012年が最初だったから4年目だろうか。海に近い側の神戸の町からはかなりの遠距離、ここ岡場の北神戸区民センターでのワークショップ開催も回を重ねた。このワークショップ以外では誘いあうこともない参加者たちは、今、ここでの思いきり親しい関係性を楽しむ。

 

このコミュニティには、習い事の集団につきもののリーダーがいない。小グループがない。一人でいることを許容してくれる。そして、一人でいても居心地が悪くない。経験者がことさらに大切にされたりしない。

そんな関係性に基づいた発表公演は、2015年9月21日17時に開演された。

 

いつもにまして和やかな稽古。当日午前中になって、演じる順番を決定し、組み合わせも、まあまあ決めた通りにやりましょうということになり、しかし、3日前の稽古で決まった内容はすでに色あせ(早っ)、当日これから台詞を作ります。夕方5時には開演の芝居、その台詞を今から作る。この暴挙のような課題に対して、それはなんということもないよ、という空気を共有することそのものを、4日間の稽古でめざすのです。

きっぱり、言い切り!

 

古楽器のトロンボーンの短い演奏によって、一つのシーンが締めくくられたり、始まりを告げたりします。かといって、全体の幕開けにファンファーレな感じの曲が入るわけではなく、今日も一日始まりましたね、的な音楽。演奏は、急きょ森田清子プロデューサーが見つけてきた、会館職員の和田さん。ドイツで演奏していた本物です。

 

今回舞台は観客席の前部、ふつうなら舞台前客席の場に、平置き舞台として設置。その前に二重の弧を描くように演じ手が着席します。このワークショップの特色の一つは、演じる人が、もっとも熱心な観客でもあるという構造。その構造が芝居そのものを作り上げることにもなる重要な特質です。今回の椅子の並べ方は、その特質を必要かつ十分に満たしました。

 

音楽が響く中、青いライトがほんのり舞台を照らす暗転。一人の男性がいつのまにか舞台中央の椅子に座ります。明るくなって

 

「退屈な授業」

舞台下から、のんびりとして同じ調子で、「れるられるは受け身、尊敬、自発、可能の4種類や、」という講義が聞こえます。このどこか別の国から風に乗って届くような先生の声。客席で聞いていると、自分たちが教室に座っているように感じます。舞台の学生服男子は、割とちゃんと座っています。でも、聞いていないことは明白。かといって覚醒水準は高く何か興味を引くことはないかと心の目はうろうろしています。左隣の男子とチラ見しあったり、わずかに口元左端口角をあげるだけで、「俺もそう思うわ」と意思疎通したり。あまりにも自然で、教師自身も見慣れすぎて見過ごすような生徒の態度。学校に魂までもっていかれないのは、こういうゆとりが許容されているからかも。

 

短い金管による一節ののち、舞台には女子高生が座っています。授業は現代文の形容詞と形容動詞のちがいについて熱く語る先生に代わっています。

両の足は力をぬいているのに、まっすぐにおろされています。眠気はあるけれど、でも授業は聞こうとする態度。集中しているから、いつのまにか、手癖が出ます。右の頬上部にできたニキビ。これが気になってしかたがない。つい触ってたしかめているうちに、ニキビの油を搾りだす指先。あとはどうなるかしらないが、どうもニキビは小さくしぼんだようで、安心したように右手は膝に戻ります。ごく小さい仕草で、スカートに擦り付けられます。指摘したら、絶対してないと本気権幕で起こるに違いない仕草。

あまりにも自然で、舞台の上でも気づかずに行っているのではないか、という仕草の見本です。こういうところは、結構稽古したりもするのです。

 

また、音楽が入り授業が変わります。今度は格調高く、感謝の大切さを説く道徳の女性教師の声。さっきの男子高校生が女子の隣に座ります。体を横にしないと通れない机の間。しばらくすると、ちょっと女子高生をつつきます。古典的に怒ってほっぺたを膨らませてやりかえす女子高生。いやがることとゆるされることの中間くらいをうまくねらって、ちょっかいを出し続ける男子。あるあるな、青春の光景。だから、授業中は豊かな時間だったんだな。

 

以後、シーンの間や、シーンの始まりに演じ手によって行われる日常的な一瞬芸のあとに、小さく転換の音楽が挿入されます。聞きなれた音楽を使わずに、即興で寄り添ってくれる音楽に、演じ手も客も安心します。

 

「家庭訪問の心得」

せんせーズ、辻先生が舞台中央にたち、新米の先生を前に、家庭訪問の心得を話します。ベテランの経験は驚くべき家庭の数々を活写します。

 

いきなりハイテンション怒声のお母さんに、「先生、またか、子どもの喧嘩に親や先生が出て行かんでええやん、もう、うち絶対謝りに行かんからな」がらがらどしゃん。しめられる引き戸。辻先生ですら、一言も発することができません。

愛想よく招き入れてくれて、どうぞおあがりくださいと言われたけれど、玄関入ってすぐにちゃぶ台。そこに祖父祖母弟弟妹父母本人がずらっと日常的な座り方。だれもどかないし、どくスペースもない。そういう時は、いやいや玄関先で、と言いましょう、と指示は視覚的な事例を用いて的確です。

 

次は、その筋の息子を担任したときのエピソード。これは、古典的名作先生芝居の初期に出てきたシーンです。監視カメラの登場など、10年目の更新情報もあります。門から玄関まで左右に分かれた若い衆が、腰を落としいざなう方の手だけを開き、もう片方の手は腰に回しての人垣アプローチ。そこをできるだけ落ち着いた態度で通り抜ける緊張感。教師は社会経験が不足しているとよく言われますが、意外にディープな体験は豊富です。

 

場面転換して、6人の保護者が居並びます。下手母から、玄関に立つ先生に対応します。大体、テンションあがって、日常を見せる目的の家庭訪問で、舞い上がっているときの母のすがたが活写されます。

丁寧ににこやかなのに、上がるかそこでいいかをマジ目つきで聞き、上がるならば、靴下の細かい砂やほこりを払ってくれと依頼。私、学校雑菌アレルギーですねん。と言われてしまう。次に訪れた家では、いきなりパジャマの海坊主のような保護者パパがたちはだかり、

何しに来たんや!とすごみます。這う這うのていで、3軒目につくと、上品でにこやかなママ。先生、こんな遅くまでごくろうさまです、とあいさつされ、あら、私今ロンドンとテレビ電話してたもんですから、と階級差が提示されてしまいます。

 

等身大の教師でいながら、生徒に愛され、保護者に頼られ、場合によるとリーダーシップを発揮するのが、公立中の教員です。フレー、フレー

もう、かなり疲労している教師に、さらにアニメ声でフリフリの服の評価を聞かれたり、玄関あけたとたんにテンパりまくっているおかあさんの落ち着くのを待ったり、電話の横においてある水槽の金魚の可愛さ共有を求められたり、します。

ごくろうさまでございます。