ナースナイトで思ったこと | イッセー尾形・らBlog 高齢者職域開拓モデル事業「せめてしゅういち」

ナースナイトで思ったこと

ナースナイトで思ったこと

普段、楽ちん堂でよく出会う、ナオさんとトヨコ。2人は今回ナースウエアに身を包み、聴診器を肩にまわして登場。その正確無比な腕、指、手首の使い方と、怒っていないことがわかるのに、表情を表さない佇まい。

舌を巻いたのは、患者さんを前にしたときの、間。ぴったし、こちらがやりとりを脳内再生する間、じっとしている。しかも、その間じっとしているのは、顔と口だけで、手は次の準備をしている。

 

プロだから当たり前だろう、と、そういうことであってそういうことではない。わたしたちは、演劇を見ているのだから。ナースそのものがナースの格好して、リアルな相手を彷彿とさせて、医療の現場を再現している。それは、現場の微塵も無駄のない必要な動作と言葉かけで構成されている。ところが、舞台の上でそはまったく無用な行動と言葉かけ、やりとりとして、流れていくのだ。ナースの言動が製品化されてコンベアの上をきれいに流れている。

 

観客はなぜソレを見ておもしろいのだろうか。知っているシーンの魂がなくなっているのに、形はむしろ整然としている。意味と魂のない美しい形式。

 

兵庫のセンセーズは、若干の混乱の後、学校という現場の毎日を再現して見せることが眼目だと了解したあとは早かった。今は、部活指導から直接舞台へ、くらいの荒業は平気でこなして、しかも、大笑いをとる。

 

4月4日のナース芝居も、既知シーンを再現されることにただ、観客は面白みを感じた。学校とは少し興趣が異なる。病院とは、働いている人の感情や気分はほとんど動かないが、患者やその家族として赴くときには、興奮、不安、嫌悪、心配、抵抗、対抗、媚、おもねり、と、普段は用いない、あらゆる社会感情的な体験をする。この日の芝居は、過剰な感情に振り回される医療現場が、まったく空っぽの無機質な状態で運営されているのを、その空っぽだけを見せられるのである。ポカーンとする感じ。入っていた肩の力の持って行き場にこまる感じ。どちらにしても、観客が自分の大切な日常のシーンを新たな評価のもとに受け止める経験に、会場は小さく湧いた。

 

演じる2人の堂々とした態度には、わけがある。彼女たちは、ナースのペルソナであるナース装備をしている。彼女たちにとって、憩いと社交の場である楽ちん堂においてさえ、制服の持つ力は大きい。なんなく、日常業務のリズムとテンポにはまっていく。

 

センセーズとナースナイト、おそらく、いろいろな業種の芝居ができていくのであるが、もうすでに出来上がっているサラリーマン芝居とは、成立の機序に少し違いがあるようだ。それについては、また別稿にて。

 

あ、新学期になったら、なぜか、常態の文章になってしまいました(笑)。吉村