雄三です。鹿島中学の図書館での稽古の事 | イッセー尾形・らBlog 高齢者職域開拓モデル事業「せめてしゅういち」

雄三です。鹿島中学の図書館での稽古の事

 僕が覚えているのは、運動場が見える図書室で日が落ちてから稽古していた事。壁越しに、突然、豚が絞殺されるような、何とも例えようのない叫びが聞こえて来た。驚く僕に「生徒指導ですよ」と玉田先生が椅子に浅く腰掛け両足を伸ばしたまま教えてくれた。不良生徒が首でも絞められているのかと思ったら、叫び声をあげているのは尾池校長らしかった。そういえば、稽古を監視していた尾池校長がいない。薄くなった髪の毛を由井正雪みたいに長くしてオールバックにしている尾池校長があんなキーキー声を上げるのかと、ちょっとびっくり。

 

 たまたま不良生徒を叱る生徒指導の場面の練習をしていたから、「あなた方、芝居だからといって嘘をやっちゃいけませんよ。本当はあんな風に激昂して指導しているんじゃありませんか」と現実の再現が芝居だと説明すると、「あれやればいいんですか」と先生全員が納得。ベテランの先生たちは「豚の絞殺される声」を軽々と出してくれた。中でも、文学肌で良識の塊のような養父先生が声を張り上げたのが面白かった。絶叫しながらも「象と鳩」のたとえ話をする。「お前は象じゃ、力が強いからじゃれついてくる鳩と遊ぼうとしただけで、鳩は死んでしまうんや」と童話みたいなことを言う。怪我させた不良生徒に、ふざけただけでも弱い子は怪我をするという趣旨。怒鳴りながら、よくこんな童話のような事を喋れるなぁーと感心したものだ。

 

 生徒指導から戻った尾池校長は、何事もなかったかのように座っている。教師全員が固唾を飲んだのが「ピシ」という微かな音。3、4回は続いたかな。「一枚10万ですわ」と尾池校長。叱られた不良生徒が窓ガラスに石を投げて報復しているのだという。

 

 後から知ったのだが、兵庫県では有名な体育教師が稽古場にきた。いかにもの体育教師だから、強気の女性教師の中西さんに「体育祭」にしたらどうかと、体育教師に提案してもらった。体育教師には「体育大会でいい」と主張する。僕の思い付きじゃなく、その体育教師が「体育大会」に拘っているのを直前の雑談で喋っていたからだ。

 二人の論争は、はっきり対立になり、「面白い芝居になる」と思っている僕を尻目に、二人のやり取りは白熱化していった。「いま『あんた』って言うたよな。なんや『お前』」と体育教師。中西さんは「お前はないでしょう」とやり返す。体育教師は「とことんやったる」と、腕まくりをはじめて、芝居どころではなくなった。僕が止めても、二人は息を弾ませていた。

 この稽古一回で、この体育教師は二度と稽古に来ることはなかった。

 

 実は学校現場は、部外者の僕が想像しているのとは違って、何かすごいものをはらんでいるのに気が付いた。本音を覆って建て前で過ごしているというのかな。兵庫の地は気性が荒い漁師町があり、神戸大阪のベットタウンになっていて、子供の家庭環境がバラバラなのも関係していると後で聞いた。

 

 我々が生徒指導を芝居にしているという関係で、「近畿生徒指導」の研修会でロールプレーをやって欲しいとの依頼があった。稽古をしているセンセーズに不良生徒を演じて貰い、現役の生徒指導の教師に、どんな叱り方をするのかの研修。

千人の劇場に客性は満席。近畿にはこんなに多くの生徒指導の先生はいるのかと驚いた。ほとんどがニコリともしない強面だったからかもしれないが。

そのロールプレイに志願してくれた本物の生徒指導の教師が舞台に並ぶと、それだけ言葉は悪いが暴力団のような迫力がある。小濱先生にリーゼントのカツラで相手役をしてもらうと、迫力のある一人がいきなり小濱先生の胸ぐらをつかんで「よう、俺のとこまで来たな!」と、有無を言わさず脅す。小濱先生も驚いたのか、顔面蒼白になりながら「何するんじゃ!」と言い返す。最初から、芝居どころではない雰囲気になってしまった。慌てて止めに入る僕。

 

 この事に対する、感想や意見は様々にあるとは思うが、とにかく良識ある教師の息子の僕には知らない世界だった。何も彼らが暴力教師と思ったわけではなく、迫力がある教師が、究極の場面では必要であり、教育界全体が容認しているということだ。不良生徒の暴力がエスカレートしていて、それを受けて立つ迫力が教師の側にも求められているということだろう。

 

 どうやら不良生徒の側は「伝説になる」のが目的らしいのだ。「あの中学にはあんなワルがいたで」とか「お前は、この学校創立以来のワルや」となりたいらしいのだ。だから、生徒指導の教師をギャフンと言わせたいのだ。だから、弱い教師には悪ふざけ程度で、本命は迫力のある教師なのかもしれない。だから不良生徒の本当のワル振りは、一部の教師しか知らないという事になる。

 

 この学校の裏を知らない限り「雄三WS」は何をやっているのか分からないのだ。例えば「教師は偽善者です」というのも、学校の裏側に関わらなければ教師は「良い人のつもり」で過ごすことが出来るのだ。

 

この原稿では「暴力」について書いたが、教師の最も重要な事は授業だ。確か、NHKが取材で稽古場にテレビカメラが入った時だと思うが、「詰まらない授業」をしてくださいと指示した。

僕の考えでは「大抵の授業は詰まらない」と思っている。「分かる授業」「面白い授業」をやっていると思っている教師は「出来ません」とか「より詰まらなくしよう」と演じる。他の教師の授業が下手で退屈と思っている教師が、正当に自分の授業を詰まらなく演じられるのだ。自分の授業を捉え直すと言い換えてもいい。

 そりゃそうだけど、「詰まらな授業」はNHKではカットされていた。僕には面白かったけどね。

 

 最近「自分は良い教師」で「面白い授業」をしていると信じている教師の参加者がいる。涙が出るほど熱心だから、僕も根負けして、最近は怒鳴るのを止めた。僕の言っている事はチンプンカンプンだろうに、必ず稽古場に来る。職員室では教師としての疎外感を感じているから、はっきり嫌う雄三が、まだ落ち着くのかなぁーと思う事にしている。

 

 中学校の校則が、滑稽なまで細部まで取り決めるのは、規則を守らせる為というより、子供たちに規則の裏表を体験させるためにあるのではないかと思う。どの程度、規則に従えばいいのかを覚える。だから、規則をきっちり教える教師も必要なら、大目に見る教師も大事なのではあるまいか。

そして教師の世界は狭いから、同僚とはほぼ一生付き合わねばならない。だから表面上は仲良く、裏に一物あるというのが、正当な社会の縮図と僕は思っている。子供にとっての初の社会体験だから、カリカチャされた「本音」と「建て前」が分かりやすいのだろう。その体現を教師は日々行っているから、少ない稽古でも学校社会を演じることが出来、学校以外の一般社会にも観客のイメージが広がるのです。