MWS#53 イッセー尾形とステキな先生たち 「毎日がライブ」から観劇記 | イッセー尾形・らBlog 高齢者職域開拓モデル事業「せめてしゅういち」

MWS#53 イッセー尾形とステキな先生たち 「毎日がライブ」から観劇記

  2006年3月31日、今日で学校の1年が終わるというその日に、神戸新開地KAVCアートビレッジセンターで、センセーズの公演がありました。お客さんで満員。その日の芝居は、起こして戯曲集として、教育出版から出版されました。このBlogの右下の欄に黒い表紙で掲載されています。まだ手に入るはず。そこに観劇記として書かせていただいたものを投稿します。私はセンセーズをみなさんに知ってもらいたいのです。密かに何冊か購入し、大学で教育学を教えている友達数人にあげたところ、大受けでした。各県教育委員会関係者は必見です。

 さて、なんと、2時間半の長丁場、こんな面白いもの見たことないというか、こんなおもしろいもの見てたのか毎日、という感想。学校場面で日々繰り返されるできごとを切り取ってつないで、現場の先生がやる気充分の教壇と舞台を取り違えての公演、客席は身を乗り出すように見入っていました。

 最初はイッセーさんがライオンヘアのあの人(当時の首相ですね)の姿を借りて校長先生。イッセー尾形の作り方では、誰かを借りてやるというのが一つの手法になっています。今、ライオンヘアのあの人が学校の管理職をやるというのは、本当にびっくりするぐらいはなるのです。人ノ話しは全く聞いてないとか、批判されても急に演歌で開き直るというところが。

 楽屋前にあったホワイトボード、教育委員会の会議録みたいに、標語が書き連ねられていました。せりふにちりばめるのですが、まとめて読むと、教えられ立ちそだてられたりする対象の子どもそのものが薄っぺらに思えてきます。「生きる力」、「学力向上」。「確かな基礎学力」、「心の教育」、「国を愛する心」。

 だれもが、言葉にしたとたんに教育がうそくさくなることを知ってるそういう言葉です。旗印にしても誰も動きそうにないけれど、掲げておかなくてはいけない言葉たち。そしてわかっちゃいるけど目の前の子どもが曲がっていくのは見ておれない教師たち。イッセー校長はこれらの言葉をちりばめながら、だれも聞かないのに、かといって眠らせてくれない新学期挨拶をしていきます。

 暗転の後、2人のシルエットが立ち姿で浮かびます。舞台下手に立つ人、タマダ先生にスポットがあたりました。驚くことに、なんのしかけもない出席とりが始まります。ほとんど名前を呼ぶだけのことが人を替えて6人ほども続居ていきます。ところが、ここで観客席は舞台に引き込まれていきました。後での感想に、この時、自分の名前が呼ばれるのを待つ気持ちになったとか、返事したかったとか、口々に言っていました。学校という場面がどれだけ親しいものなのか、型にはまったところなのに、一人一人の記憶はとても固有であったことがわかります。

 この出席とり、前野火の稽古で雄三さんが繰り返しいろんなかたちで練習させていました。「これ、なんかあるんだよね。受けるって確信はあるんだけど、なんでかってのがわからないんだ」そう言われて、結構もったいぶったり、ウケねらいのバージョンをやってみたりする出演者に、「そうじゃなくて、淡々と名前だけ呼んでみて」。稽古見てた清きおさんとわたしの話題は、ちょうどそのときドイツから作家のシュリンクさんが来ててその日の朝まで伊豆を案内してたんだ、ということ。ドイツで今携帯の画像で人殺しの生々しいシーンが転送されて、学校にきてる生徒にその画像が広まったことで、携帯電話を学校に持たせないって世論が高まってるんだって、と。話しているうちに、そうか、携帯電話の世界って「今ここで」をなくすんだ、ということに2人して気づいていきました。生徒にとって、学校は「今ここで」じゃなくなりつつあるのでしょう。でも、目の前で出席とるその、名前呼ばれるしゅんかんはどうしようもなくライブです。欠席さえも、そこにいないという存在感の示し方。雄三さんの勘は、ここにあったのかもしれません。

 

客の発見

「出欠取りはおもしろい」

 

最後にでてきたケダモト先生は、先生になって2年目の新人君です。先生はめがねの奥の目の動きが読み取りにくい、そんな表情に固定しているところがケダモトらしいという人です。出席をとると、さっき最初に出てきたタマダ先生がケダモト先生の後ろを通って、客席に向かい合います。ケダモト先生の口調は「それでは出席をとりますう」と、関西弁の抑揚を思いっきりつけたうえでさたに、語尾にUをつけて伸ばします。丁稚どんみたいなしゃべり方。丁寧だけど、口をすぼめて伸ばす語尾に自分の気持ちを抑えコム力がありそうです。自身なさげだけど根性座っていそうです。

 タマダ先生は新人教師と生徒の両方を教える立場であることを次第にあらわにし、生徒に直接指示を出し始めます。新人教師は意外に童謡しません。テレビドラマならば、ここで新人が震えたりする演技が決まりごとなのでしょうが、現実は結構人間それほど童謡したり困ったりは人に見せないものです。しかし、声の力が新人とベテランとでは圧倒的な差をもっていることに妙に感心させられます。

 教師の立ち姿って、これほど決まるのかというくらい舞台に映えます。顔が最初から人の前にさらす顔でできあがっているのです。しかも、嘘くさくない。テレビに映るタレントさんが楽屋ではまったく違う表情をしているだろうとはだれしもわかります。でも、この先生たちは顔ができてて、しかも日常もたいだいこの顔で通してしまう。

 

客の発見

「教師は顔ができている」

 

 

次々と先生が舞台に上がります。2人目はイッセー尾形が英語教師に扮します。身体の右半分は黒板を、左半分は生徒の方を向くための異様な足の開き方。イッセーらしい現実の誇張ではありますが、私、実際教わった先生の足の開き方ありありと思い浮かべてしまいました。

 授業をしていた教師は、講義する音とまったく同じ音で、急に打ち明け話を始めます。このシリーズはほんとおもしろかった。タマダ先生は「走れメロス」の講義中に、「おそろしく大きなもの」とはなにか、と哲学的な命題を掲げたと思ったら、死体沈めのバイトをしていたと、チョーク持つ手で死体をかき回す棒を繰り出します。客は授業から法螺話に移行したという違和感を感じずに、身を乗り出します。私たちも授業中眠くなっってきたちょうどその時、どれだけこの手の半分ホラー話しに、眠気を吸い取られたのでしょうか。教師の手腕なのですね。

 で、また同じ声でメロスの「大きなもの」とはなんぞや、と戻るので、つい、「おそろしう大きなもの」を考えてしまいます。と、「くじらあ。ちょとお、脳とおさんと口に出すのやめてくれる?」と授業中のつっこみが入り、照れ笑いしてしまいます。

 コハマ先生は肩にハンガーが入ったような格好の人です。「それがしはかかしにてそうろう」とか、時代劇古文みたいな授業です。なのに、内閣調査室に以前勤務していたと言い出します。「アメリカで言えばFBIや」とか言われたら、ところは教室、閉ざされた空間です。刷り込まれた知識情報は、なかなかしつこい。スパイの先生に教わったという事実を信じて成長してしまう生徒、いるんですよね。

 ツジ先生は声がでかい。すごいテンションに見えるような声の出し方をします。授業そのものが文法ソングになっていて、こぶしをきかせて歌います。

「形容動詞さわやかだ

「学校の先生になる前、私立探偵やってました。荷物もっていったら、壁が続いて入り口にたどり着けない言えでした・・・・」おお。と客がどよめくのを尻目に、「あのsのどのこの連体詞」で暗転してしまうこの時間切れの妙味。授業でもきっとベルとともに去りぬでしょう。

 笑顔が一目をひくナカニシ先生、一人だけ女性の先生です。授業途中で、前歯ののぞく愛嬌のある笑顔のまま、以前いた学校で実習のため犬を連れてきて解剖したと、にこにこ話しだします。ギャップに私凍りついてしまいそうでした。