清子です 子育てのころ | イッセー尾形・らBlog 高齢者職域開拓モデル事業「せめてしゅういち」

清子です 子育てのころ

兵庫の先生集団センセーズは、ただいま卒業式シーズン。花束もらったり、生徒の背中を押し出したり、生徒から肩を叩かれたりしているだろうなと思います。先の玉田先生の投稿では、初めて雄三さんやその後の仲間たちと顔合わせしたときの衝撃をありのままに綴ってありました。しかし、自分たちの教壇と教室こそが舞台だと気づいたあとは、舞台は余裕のよっちゃん。自分たちの毎日を観客の目をもって 演じたら、そのまんま人が見てくれるものになるとわかったからです。そんな非凡でどこにでもいる教師集団演劇部に光をあてた清子、雄三の子育てのころを投稿します。アグネスチャンが、自分の子どもを仕事場に連れてきて、大きな論争になったころのことです。

 清子インタビュー 子育てのころ

 

その頃の仕事は、相手方に訪ねていって交渉して、っていうことが中心だから、子育てしながらできることだった。でも、よく言われたわ。「そんな仕事の仕方ができるのは、あなたが恵まれてるからよ」とか、「2人になったらその働き方は無理ね」とかね。そういう常識からいろいろ言われたけれど、ほかにどうしようもないしね。で、子育てをしながら働くという喜びを認めるような感じがしてもいたわね。この前に話したように(お笑いスター誕生のころ)プロデューサーの中島さんが言ったように、子育てと仕事を一緒にするのは大変だって見方も一般的に正しいよね。

 

そのころ長男が3,4歳だったかな、保育園に昼間あずかってもらってた。ちょうど、動物というか、言葉を持たない知性が、人間ってものを発見する時期でしょう。子ども連れて挨拶に行ったり、謝りに行ったり、台本とりに行ったりね、そういうことしていて、子どもの目を通して人とか働き方とかを発見するっていうことを魅力とも感じていた。

 

そのころ、テレビの台本って、直接誰かがテレビ局に取りに行くことになっていたから、「いじわるばあさん」の頃は、麹町に台本取りに行くくらいで、割りと余裕があったの。でも、次男が生まれるのと仕事が急に増えていくのがまったく同じだったの。ロケ先から渋谷にひとりはおんぶして、もう一人の手を引いて急ぐなんてこともよくあった。

 

次男が生まれて1週間目から、まだ私自身が起き上がれないようなときに、1日に80本の予約電話をとったりしていたの。6畳と4畳半の二間しかない玄関のタタキに黒電話があるんだけど、そこまで行けなくてね。そしたら、雄三さんが「もうすぐ、携帯電話ってのができるらしいよ、って。この間現場にNTTの人がサンプルを持ってきていたから、使ってみるか」って持ってきてくれた。そうなのよ。なんか自衛隊の人が屋外でもっている大きな無線機みたいな黒い大きいのでね。それを布団のまくらもとに置いて、電話で予約をとっていたの。

 

紀伊國屋ホールの予約でね。まだ、どうやって予約とるかってのも素人だから、400人の予約に同姓同名の人が来るなんて想像していなかったのね。で、「まだ3人目だから一番前のお席ですよ」って言ったの。で、会場に席番号と名前を貼りだしたら、同じ名前が後ろの方にもあったのよ。それでごめんなさいってこともあったの。手探りだったのね。

 

2人子どもができてそれからの7年から10年くらいが、子育てとビジネスとしてどうしていくか、って時期だった。でも、子どもを通して人を発見していくような時間だった。

 

あるときね、NHKにヒロタって制作の人のところに謝りに行くことがあってね。例のごとく2人を連れて行ったら、「おー。おれはな、あんたみたいな、お涙頂戴っていやなんだ。ねらってきたようじゃないか。」て言われたの。ちょうど、来いって言われた時間は、長男を保育所に迎えに行ってからの時間だった。「連れて歩かなきゃいけないから連れてきただけです。特別なお願いをするつもりはまったくありません。」って言ったの。

そしたらね、そのプロデューサーの人が、「わかりました。あなたが素人だということが。実は自分もほかの部署から急に畑違いのところに変わってきた素人なんだ。この局面を2人で乗り切りましょう」って言ったの。まあ、少し癖のある人ではあったけれど。私にとって、それからテレビ局でどうしたらいいか、いろいろ教えてもらった。

 

コマーシャルが入ったとき、どうすればいいか、とか。レギュラー入ったらどうするか、とか、他の局と渡り合うときは、どう、とかね。その時々にクリアに真摯に考えてアドバイスいただいたの。

 

広告代理店の人で、ツキサワさんて人も、ずいぶん教えてもらった。電話してきて、子どもの泣き声がするから「ご自宅ですか?」って聞かれて。その頃まだ雄三の現場仕事とかの連絡も受けていたし事務所はアパートだったし、マネージャーっていうようなことじゃなく、現場仕事の取次のついでみたいな感じだったから「友人として仕事受ける窓口になっているだけなので、CMの金額はそんなには」って言ったりしたの。その後、CMの仕事を受けるときどういう言い方をするか、とか教えてもらった。その時にツキサワさんからもらったCMは3年続いたのね。ずっと付き合ってくださった。向こうも面白がっていたかもしれない。その間に、イッセー尾形はどんどん売れていったから。ほかのCMからも声がかかった。でその頃にツキサワさんが「このまま率直な言い方さえすればいいからね。あなた、ものすごくちゃんとした仕事しているから。」って言ってくださった。

 

今、こうやって話していると、アパートで黒電話を取りながら見ていた風景とか、くっきり思い出すわ。半畳の玄関のタタキに、子どもの小さな運動靴を踏みつけながら、電話しているのね。その足の感触とか、黒電話の受話器の重さとか。

 

市川準さんのCMにも出してもらってたの。あるとき、市川さんが直接電話くださって、で、次男が電話に出ることがあってね。低学年のころ。で、「社長は今、手が離せません。揚げ物中です。」って言ったんだって。で、またある時はやっぱり市川さんの電話に次男が出たとき「君は社員?」って聞かれて「はい、ヒラです。」って答えたらしい。市川さん、そのあと、何度も「揚げ物で手が離せない。ヒラです。」ってのを口真似して笑ってらした。確かにおかしいよね。

 

一番大変だったのはね、次男の離乳食の頃。そのころ、タッパーウエアってのも、やっと、ホームパーティで高額なのをやりとりするって頃だし、持ち歩けない。コンビニもないし、蕎麦屋みたいなのも夕方にはしまってしまう。仕方ないから、パン屋さんの菓子パンに入っているカボチャのクリームとか、そういうの、指でね、掬って食べさせたりしたわ。今、叱られるよね。子ども肥満にしてしまうって。

 

2人子どもを連れて車で移動するから、トイレ一つでも車が止められるところじゃないとだめなのよね。ご飯食べて、長男がうんこ、っていうと、仕方ないから、交番のトイレをお借りしたわ。その頃、交番ってもっと今よりあちこちにあったと思う。で、さすがに同じ交番では一度しか借りられないから、あちこちでお借りした。道路脇に車止められるところみつけて、何か食べさせたりね。

 

大変だけれど、自分の状態でやるしかないわけだから、そうやっていたの。嫌だとは思わなかったわね。そうね、雄三も言ってたけど、今の状態からやれるようにやっていくしかないからね。