清子インタビュー 地方公演を始めたその翌年に、もう海外公演も始めたの | イッセー尾形・らBlog 高齢者職域開拓モデル事業「せめてしゅういち」

清子インタビュー 地方公演を始めたその翌年に、もう海外公演も始めたの

テーマ 清子インタビュー 地方公演から海外公演へ

 

地方公演を始めたその翌年に、もう海外公演も始めたの。それはね、突然、飛び込みの電話から。ある朝、たどたどしい日本語でジョナ サルズってアメリカ人で京都の大学で教えてるて人が事務所に電話してきたの。かいつまんで言うとね、こういうこと。

 

自分は東京の大学に就職しようとして面接試験を受けに来た。でも、落とされた。その理由はあなたは大学のことしか知らない人。でもうちの大学は、社会経験から何かを学生に伝える人を選びたいと思っている。と言われた。自分が日本で外国人だということを寂しいと思ったその夜。ホテルでテレビをつけたら、一人芝居をやっていた。このイッセー尾形って人は、日本人でいながら異邦人のような人だ。この人のセリフを戯曲として翻訳させてもらえませんか?って電話だったの。

 

でも、その人の日本語がどれだけのものか、だから聞いたの「あなた日本に来て何年ですか」って。そしたら13年だって言うの。「じゃあ、奥さんは日本人?で、英語が得意な人なのね」って、で、そうなんだって言うのよ。

 

ニューヨークで戯曲として出版するとして、それならいっそニューヨークで公演をやって、それから出版するというのはどうかしら、って言ったの。その手もありますね。みたいな進みになったの。そう、いきなりの電話で。

 

そしたら、雄三も尾形さんも反対したの。日本人に特有のことをやっているのに、外国で受けないだろうって。地方公演をやろうっていう時も、2人は反対したのよね。都会の暮らしを芝居にしていて、東京で受けてる。それを地方に持って行ってもだめだろうって。地方で都会みたいなストレスを感じてない人に、伝わらないって。

 

で、その1年前に戻るけど。大阪に呼んでもらって、その翌年かな、自主公演としては最初は名古屋だったと言ったでしょ。手伝ってくれた人も興行なんてやったことない人。で、自分の弟と2人でやってくれたの。一から素人でやってできるんだから、ニューヨークでもできるんじゃないか、って思ったの。私。

 

ニューヨークでは、国連ビルの隣のビルにあるジャパン ソサエティのプロデューサーがノッてくれた。ポーラさんって人。サルズの説明がよかったのね。そのビルのシアターでやることになったの。ジャパン ソサエティって、日本のアメリカに進出している大企業が共同でお金出して運営していた。ここを通じてやれば、日本からアメリカに海外赴任しにきている日本人が、見に来てくれると思ったの。

 

で、ポーラは日本にわざわざ、この世田谷の稽古場まで尾形に会いにきてくれた。私が彼は飛行機に乗るのが怖いって言ってると伝えたら、彼女は尾形に「この私の顔をしっかり覚えてください。空港で必ず私が出迎えます。知っている顔が待っていると思えば、大丈夫です。飛行機では知り合いが隣に座ってくれれば大丈夫」と言ってくれて、その通りにしてくれたの。自信もって言うものだから、尾形も「へーそうなんだ」って。で、ニューヨークに行ったの。それから確かに、隣に親しい人がいれば、閉じた車中もなんとかなるようになったし、外国にも行けるようになった。

 

で、外国公演も地方公演と同じやりかた。来てくれた人のアンケートに書いてくれた住所に、エアメールでダイレクトメールだして、で、どこか自分の国でこのお芝居を見たいといってくれる方はいませんか?って。そしたら、名乗りをあげてくれる人が出てきたのよ。

 

ジャパン ソサエティの第一回公演のあと、黒人の青年が待っていて、少し話したいって言ったの。で、今日のこの公演であなた方はなにか気づかなかったか?

 

何を言われているのかわからなかった。そしたら彼が「今日劇場は400人の人がいて黒人はぼくだけでした。そのことをどう思いますか?」

 

「私たちはときに敏感じゃないことがある。気が付かなかった。これから、この興行を必ず続けます。いろんな人にみてもらうために努力する」と言った。

で、「僕の大学にどのくらい黒人がいるか見に来ませんか?」て言われて、一緒にぞろぞろついて行ったりしたわ。プロモーターに呼ばれて、その土地で興行を打つっていうのと全く違う出会いや関係性があって続いたってことね。

 

それから、ヨーロッパでもイギリスでもこういうやり方で公演しようと決めた。話しが飛ぶようだけれど、その年に雄三が尊敬していた安部公房が亡くなった。まだ若かったわ。桐朋の先生だったから私も教えてもらった。安部公房の死は私達に影響したと思う。雄三は、イッセー尾形の戯曲の部分を主として担っていると思っていた。でも、もっと広く、どんな人にも届くように、言葉の説得力とかにも気配りをしようとしたの。反対に、言葉の力が無効だっていう芝居を作ってみようともした。ニューヨークの第1回公演で、日本の政治家が演説するんだけど、うーとかあーとか何言ってるか全然わからない意味不明瞭な政治家ってネタを作ったりした。意味はわからないのに、なぜか政治家らしい人物ができたのね。

 

同じように国内の興行でも何かを拾ってきて、次の作品に仕上げていった。そういう旅だったんじゃないかな。