森田清子インタビュー スタジオ200とジァンジァンの頃 | イッセー尾形・らBlog 高齢者職域開拓モデル事業「せめてしゅういち」

森田清子インタビュー スタジオ200とジァンジァンの頃

スタジオ200はね、池袋の西武百貨店の中にあった。今、アートのしごとしている同級生のTくんが紹介してくれた。1982年4月。長男の善が2歳だった。

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スタジオ200で初めて芝居をした日、永六輔さんが来てくださった。アンケートに「僕は時間ぴったりにきましたが、あなた方は10分遅れました」って書いてあった。現場から駆けつけたりしてたからね。で、永さんがその日に、自分は渋谷のジァンジァンで、「10時劇場」てのをやっているから、出ないかって誘ってくださった。それで渋谷のジァンジァンに出るようになった。その年の10月ね。ジァンジァンはできて10年くらいしか経っていなかったから、決して古い建物ではないのに、イメージは古い地下のアジトって感じ。細い階段をパルコに向かって降りていくような。新しい街なのに、アジトに潜っていく空気があった。オーナーというか支配人してた人は高島さんって人。もともと演出をやりたかったとあとで聞いたことがある。青山学院の仏文科だった。「池澤夏樹と話したら、プルーストに対する解釈が違ってて、」なんて話しを聞いたりしたわ。ゴム草履にはき古したジーンズ。後にジァンジァンを閉めるときに、「渋谷が子どもの町になってしまったから」っておっしゃってた。

 

そこに連れて行ったときに、長男の善が「ここ、父ちゃんの現場だよね」って言うのを聞いて、面白いやつだなって笑ってた。で、「俺の作った舞台に靴を脱いであがったのは尾形くんが初めてだ」と感心するように言われたけれど、それはね、尾形と雄三が現場では依頼主の建物を汚さないようにする現場の作法通りにしただけなのよね。

 

楕円の劇場でフロアーの角に舞台が設置されていた。そこに立つと正面に大きなコンクリートの柱が見えて、客席を2つに割るみたいな感じになるの。もちろん地下室ね。音楽にもものすごく詳しいし、意識の高い人だったから、音響のことを考えていたと聞いたわ。セリフがどんな些細な音で言っても聞こえるようにと。繊細に考えられた空間だった。

 

イッセー尾形は声を張り上げない演劇だったから、マッチしたのね。特にここでは初めてのネタを下ろすようにしていたから、音に神経質だった。今のワークショップと同じような作り方で、直前に作ったものをかけることもよくあったの。でもって、その生な感じを大切にしながら、繰り返すからその最初の生き生きとした空気をなくさないように、音にとても敏感になっていた。それを助ける空間だったの。

 

ここでのネタは日常の現場での労働者の視点から作っていた。一方、スタジオ200はね、サラリーマンのネタを持っていったの。スタジオ200って、西武百貨店がカルチャーセンターを作り、そこに付設した劇場で、200席だった。フランス映画に出てくるみたいなおしゃれな空間作りをしていた。駐車場のビルの上階にあったから、下からノンストップでエレベーターに乗っていくのね、で扉が開くと、真っ白な壁のホールに、バーカウンターにあるみたいな、真っ赤な高い椅子が並んでた。で、ホールへの扉が黒なの。そこへつないでくれた私の友人は演劇を学んだけれど、私たちみたいなフリーターじゃなくて、美術館のグッズ売り場をマネージメントするような仕事についてて、きっちりサラリーマンになったの。同じ時期に子どもできて、うちの子とすごく仲良くてね、一切喧嘩にならないの。よく2家族で遊びに行ったりしたの。で、私たちが演劇してるのをみて「いいなあ、自由で」とか言ってた。で、彼の立場を尊重するような意味もあって、サラリーマンの視点で芝居を作ったの。社会の中に組み込まれながら、創作者でもあり続けたいっていう存在。その精神を活かしたいと思って作っていたの。

一方ジァンジァンでは、肉体労働のリアルな生活を描いたの。

 

ジァンジァンの芝居には、シーンに題名をつけなかった。まあ、できてすぐにかけるってやり方だったし。だからパンフレットも準備できなかった。感想を書いてくださいって言うと、題名についての質問があったけれど、「感想の中であなたがつけた題名が作品の題名です」って返したの。初期のお客さんの中には熱心に7本のネタに全部題名をつけて、丁寧に感想を毎回書いてくれる人が何人かいたの。どんな人かなって、電話番号かいてくださった方に会いにいったことがあるのよ。今みたいに携帯で調べるわけじゃないから、漢字をどれだけきちんと書いているかってので、大体年齢とかがわかる気がしたの。で、あるとき、お年寄りだと想像して訪ねたら、大学受験の浪人生だったの。高校の時から見にきてくれてたのね。すごい内容で、とてもそんなに若いなんて思わなかった。彼はその後志望校に合格して弁護士になって、うちの顧問弁護士としても長い間お世話になった人。何度か会ったこともあるでしょ。彼だけかもしれない。一人芝居の最初から休眠するときの舞台まで全作品みてくれたの。全部よ。もしかしたら名乗らずに全部みた人もいるのかもしれないけれどね。今でも盆暮れに、オフィスに地元の名産とか送ってくれる人がわりといるの。付き合いがあるわけでなくて、公演のときに挨拶するくらいで、でもいつまでも送ってくださったりするの。だから、何も言わずに全部見てくれた人はいるかもしれないね。学生のときや新卒のときには東京にいて、その後住所が変わっても、っていう人もいるの。

 

この話しも前にしたでしょ。震災のあと、津波に流された日本酒を拾って、ラベルをはりかえてこれしかもってくるものなくて、って東北の公演を見に来てくれた人のこと。64歳って言ってた。同世代よね。東京から帰って仕事で成功して。で、全部失って、もう一度現場服を着ることにしたって、来てくれたのよ。その人のことを考えるの。

 

昨日ね、雨だったでしょ。でも何人か稽古に来てくれたのね。そしたら、雄三が夕食をみんなで食べながらね、「稽古に来てくれる人がいてよかったなあ」って何度も言うの。何かを与えるってのでなくて、人が自分を支えてくれるって本当に思っているの。稽古にきてくれて、一緒に何かを作るのが生きる喜びに直結してるって信じてるの。