森田雄三Mws#36 NPOらららのキャリア形成 | イッセー尾形・らBlog 高齢者職域開拓モデル事業「せめてしゅういち」

森田雄三Mws#36 NPOらららのキャリア形成

イッセー尾形の一人芝居は、世にでる前に8年、それからも30年以上公演を続けていたそうです。毎年100公演以上。日本の各地や外国にまで出かけていっての芝居。しかも、そのスタッフというのは、全くの素人集団でした。ただ、演劇に対しての素人というだけではなくて、一時など、学校に不適応な2人の少年だよりだった時期も長くあったのだそうです。以下は、2013年の3月に、『森田雄三 演劇ワークショップの18年―Mコミュニティにおけるキャリア形成の記録』として、吉村が書いて、大学の刊行物として出版したものから引用です。
 以下引用したころから、業務形態は大きく変容しています。それについては、これからじっくりインタビューで紹介していく予定です。

Mオフィスのスタッフたち

筆者が初めて参加した1998年暮れの「身体文学」ワークショップのころ、スタッフは、仕事ができるからと集められていたわけではなかった。オフィスの社長でプロデューサーの森田清子が、集まってきていた学校を拒否した少年や地道な仕事よりは面白そうだという若い人に声をかけ、仕事を与え、そのままそれが運営スタッフに育って行った。彼らはやがて、チケットの印刷手配販売、広報、経理、スケジュール調整などだけでなく、舞台の設営、照明、音響、効果などの分野を現場で学びとり、自分の役目とするようになった。また、イッセー尾形や、小松政夫など名のある俳優の舞台に、演じ手として登場することも再々であった。役者もどきの業務を彼らは面白がってはいたが、出番が終わると、すぐにチケットのもぎりや会場案内に戻るという風で、自意識のなさが彼らの仕事の特色だった。そして、しばらく熱心に働くかと思えば、ふと数か月出てこなくなったり、また舞い戻ったり、自分で事業を始めたり、会社に就職してみたり、焼き鳥屋で働いたり、引っ越し屋のバイトをしたりするのだった。

事務所の常勤スタッフ以外にも、助っ人はたくさんいる。彼らはさまざまな稼業についていた。いったん離れても、他の仕事についても、イベントやワークショップには、声をかけられずとも集まり、何もなかったかのように仕事をし、一緒に食事をし、自分の家へと帰っていく。働いているスタッフには決められた給料が支払われているが、ボランティアで手伝う者と、その日限りに働く者と、月給で働く者との間に、そう大きな差がない。境界がとてもあいまいなのである。オランダのワークシェアリングと似ているかもしれない。ワークショップの参加者も自分の仕事をもったまま、オフィスの手伝いをしたり、素人の一人芝居とでもいうべき、ラジオドラマの出演者になっていた。いつのまにか、主要なスタッフになっている者もいる。

 

本論で対象とする森田オフィスという芸能活動の事務所を中心とした人間関係のまとまりを「Mコミュニティ」と呼ぶことにする。Mコミュニティは、演劇活動の運営のほか、演出家森田雄三によるワークショップの参加運営、その他、広く芸術活動に関する支援者からなる。都内にある稽古場を併設した事務所は、スタッフとプロデューサー、演出家、その家族、そして、その時々の訪問者が食事をともにし、当然のことながら会社としての機能も持っている。

そこに外国から招へいした演劇のグループや学生たち、音楽家たち、スタッフや参加者の家族が加わることもある。数日間、数か月の居候が住み着くこともある。スタッフの子どもたちは、親が仕事に従事している間もオフィスで勉強したり、遊んだりしている。自由で相手をしてくれる大人がいて、温かくおいしい食事がちゃんと出てくる場と認知されているのだろう。

範囲の広い年齢、雑多な職業、社会的立場の人間が、まったく等価な存在で時間を共有している。

 

2007年8月4日には「ら・ら・ら」というNPOが作られた。歌うような「ららら」、であり、活動のベースが、俳優イッセー尾形、演出家森田雄三、プロデューサー森田清子からなる「イッセー尾形ら」の「ら」を増殖させた「ららら」でもある。NPOとしての活動はワークショップの運営だけでなく、広く文化的な活動や、福祉に近い活動を担う方向に向かっている。そのNPOでの思いつきのような活動として、2011年夏休みのフリースクールが始まった。それが、今では子どもたちの宿題を見たり、食事をともにしたりする教育福祉活動へと展開している。さらに、障がい者のキャリア形成の支援活動なども目指していくらしい。商業的な演劇活動の運営主体がNPOを設立し、ゆるい紐帯のもとに、家庭だけで担えない教育や育児、心配事の相談などにかかわり、そして、一人では働き続けられない人や、老人、病気の人の介護活動へと活動の内容を変容させていっているのだ。

現在のフリースクールの担い手は、その時にいるスタッフであり、ワークショップの参加者たち、また、心理学を学ぶ院生などである。ときに、居候のように数日滞在する人たちが世話をすることもある。出入りしている多様な職業人の娘や息子がその任にあたることも少なくない。2世代くらいでかかわっている人が少なくない。

 

キャリア形成のユニークなモデル

芸術に関するコミュニティというと、表現やアートに関しては他の領域よりも重視するこだわりを持っていそうだが、ここにはそういうものはない。スタッフは経理や事務も掃除も炊事も担当しており、表現することやアートを特に優先すべき事象とは認識していない。社長は清子さん、演出家は雄三さんと呼びならわされており、スタッフもファーストネームをベースにしたニックネームで呼び合う。べたべたした間柄が連想されるだろうが、実際にはお互いがそれほど干渉することがなく、もたれあう空気はない。仲の良しあしもあるだろうけれど、毎日同じメンバーで勤務するわけではないので、避けようとすれば避けられるだろう。もちろん、問題は毎日のように起こる。遅刻常習スタッフもいるし、一生懸命仕事しようとする熱意が、他者と軋轢を生み、泣き出す事件も起こる。出来事は最初から回避するように、ここのシステムはできていないらしい。起こった出来事には、とにかく全員がかかわって対応するようだ。大体週に一回程度ミーティングが行われる。そこではスタッフの個々がテーマになることが多い。「余計なお世話じゃ」と席を蹴立ててもよさそうであるが、自分の状況や態度について、その現状を認めつつ意味づけをどのように共有していくか、を延々と話し合うらしい。つるしあげにはならないが、やっぱり、ふつうの職場と異なり、一人一人の心情に侵入的ではある。テーマになる当人はどんな気分なのかわからないが、ワークショップでも、個人の特徴を延々とみなで模倣したりすることがあるが、結構そのことを当事者が、面食らったあとで、楽しんでいる。ミーティングにもそういう感じはあるらしい。

 

最近は長い期間働いているスタッフ(長い人はほとんど女性)たちが安定した根性で事にあたっているので、大きなもめごとは少なくなっているように見える。こう書いてみて、そうか、確かに若かった男性スタッフは、Mコミュニティからの脱却を目指しつつ適応するという課題を自らに課していたのかと思い至る。そして2013年現在なんとなく、よそに職場を得てコミュニティを半ば巣立っている。

 

日本の景気がよく、だれもが望めば大学に進学し、そこから大過なく会社員としての人生を送れるような世の中が続いていたのならば、このコミュニティのありようは単なるあだ花だったのかもしれない。しかし、今、日本の経済は成長を止めた。大学生は希望するような組織への就職もままならず、大きな企業でも、就業したのち3年以内に3分の1が離職する。大学を出ても人間関係がうまくいかなければ、非正規労働に就き経済的な困窮状態となり、やがて家族にもコミュニティにも属さなくなっていく。そのような世の中にあって、筆者が見聞きしてきたワークショップのバックヤード、Mコミュニティのありようは、家族と仕事、教育のコミュニティを兼ねた稀有なあり様である。

そこに一生属すというよりは、ある程度所属したら、次に自分の生活を発見していく過程へと進むらしく、多くの若い人がここから巣立って、家族を守ったり、仕事を見つけたりした。筆者はMコミュニティをキャリア形成のユニークなモデルと把握している。このコミュニティそのものは模倣することが困難であり、ここで紹介し分析解釈したからと言って、同様のコミュニティが形作れるわけではない。しかし、このような場と人間の関係性が人を育て、緩やかにお互いを継続して支えあっていることをモデルとして提示することから、それを知った者によって、形の違う、人を縛らずに所属させる場が新たに創出されるのではないかと期待する。