森田雄三Mws#33 清子インタビュー 雄三さんが病気になったころ | イッセー尾形・らBlog 高齢者職域開拓モデル事業「せめてしゅういち」

森田雄三Mws#33 清子インタビュー 雄三さんが病気になったころ

清子への電話インタビュー 2015.1.28

雄三さんが41歳のときに最初の病気。それは運が悪かった。ただの関節炎という診断を信じて放置したことで、わりと簡単な病気だったのが、悪くなっていた。職場の近くの横断歩道でバイクにぶつかって、ポーンと転んで膝をうったの。ときどき、そこが痛むけど、傷だからとなかなか医者にも行かなかった。病名は軟部骨肉腫。それほど悪性ではないガンだった。でも、さっきの事情で悪くなりすぎていたの。41歳の9月に歩けなくなっておかしい、しかも長い間下痢も続いていた。今みたいにインターネットで探せないし、紹介状持っていかないとすごくまつし、日曜しか休めないし、日曜は稽古をしていた。

 初めて大きな病院に行ったとき、最初のお医者さんがレントゲンみて、すぐに部長のところに走っていったの。そして、部長が出てきて、「俺、やぶ医者だからなあ」って言いながらお腹に触った。で、

「お子さんいくつ?」ッて聞いたの。単純な怪我じゃないんだなってわかった。

7歳と2歳半です」って言ったら、

「これねー、検査で時間かかるかもしれないから、今度の土日でゆっくり家族ですごしてらっしゃい」って言われたの。ああ、なんか悪いものだなってわかった。ところが、入院してもなかなか検査にならないの。そしたらインターンの医者が、ぽろりと言った。

「検査しても結果が同じかもしれないから、他の人の検査を先にしている」と。

これはダメだと思ったけど。どこに行けばいいのかわからない。なんとかつてを頼ってガン研に。そしたら、すぐに手術ってことになったのね。

 それまで病院や良い医者を紹介してほしい、っていろいろな人に頼んだの。でも、そういうとき、相手がどう思っているか、声でわかる。

 電話してこういう人がいるけど、どうしますか?って。でも。その声に、かかわりたくないんだなというのが聞き取れる。で、東京土建ていう健保みたいなところに連絡したら、そこでみんな待っててくれて、「俺達土方だからさー、丈夫だから医者知らないんだ。」って、はらはら涙流すの。なんてすごいんだろうこの人たちは、って思った。みんな鼻すすって立ってるの。それだけ。で10割保険でまかなえるからな、って言ってくれた。そのころはそうだった。助かったわ。

 

 で、ガン研に転院することになって、病院から直接車で運ぶことになって、部長先生が見送りにきてくれて、「先生、俺、やぶ医者って言ったのかっこよかったわよ」って言ったの。

 ガン研では、高名で気さくな先生が執刀してくれた。2週間で退院して、それが12月の半ば。正月に親戚の集まりとかに行って、よかったなあ、って帰ってきたら、熱が出て、傷がパンパンに腫れてた。で、三が日過ぎてすぐにガン研に行って、先生が傷に注射針さしたら、ピューって膿が出てきた。傷の化膿がなおらなくて、そのまま、入退院で10年を過ごしたわね。

 保険って確かに10割負担してくれたけれど、治療が終わってから払われるのね、最初にたくさんお金がかかったの。生活も雄三さんの稼ぎでやってたし、でもどうやってたのか、覚えてないものね。25歳のときから、月に2万円ずつ保険をかけてたって言ってたでしょ。この間、使おうと思ってみたら、どうしても2百万たりないの。どうしたんだろう、って考えてやっと思い出した。そのとき手術や生活に切り崩したんだな。すっかり忘れてた。

 尾形さんはね、そのころイッセー尾形って、テレビに出たりして名前が出だしたころだった。検査で入院したときから、ずっと毎日病院に来てくれたの。で、何をするでなく、ずっと森田の枕のそばにいた。手術のときも立会に来るってきてくれた。でも、く森田がもうこなくていいよって言ってとわたしに言ったのね。悲しそうな顔でそばにいられたら、気も滅入るよって。尾形さんの誠意だった。

 苦しいときに、自分がそうしてほしいように寄り添ってもらえるとは限らないんだなってわかった。電話して、もう大丈夫だから、毎日来なくてもいいんだよ、って伝えた。そしたら、尾形さんもほっとしたような声だった。

 

 骨の病気のとき、私がどうしたかって?

 アパートの大家さんのうちに行ってね、手書きの図面見せて、畑の土地に、こんな稽古場を建てて私らに貸してもらえませんか?って頼んだのよ。雄三さんに言ったら、「亭主がガンになって、気が狂ったって思われただろう」って。そうよね。でも必死だった。雄三がガンになって動けないなら、うちにいて稽古できる環境を作らなきゃっと思ったの。で、今、そのころオフィスにしていた部分を去年から「いくつあるぽっく」って、少年のデイサービス施設として都に認可してもらえた。倉庫と雄三清子の居室の部分を世田谷区に申請して、地域コミュニティのための改築を認めてもらって、いつでもあいてるカフェにしたの。今日も今、あかちゃん連れのお母さんが沢山来てる(電話から声が聞こえる)。しかも居住兼でいいって条件だった。あのときに、なんであんなすごい条件出して大家さんにこの建物を建ててもらって借りたのか、本当はよくわからないけれど、ずっと今日につながってるなと思う。

 もちろん、大家さんにこういう家を建てて、貸してくださいって無謀よね。でも、そこのおばあちゃんがね、いつも畑していて、私たちは2階建ての小さいアパートの部屋を借りてたの。で、上の子がよく泣いてね、朝早くに、犬の散歩させるように子どもたちを連れていっつも散歩していた。それをおばあちゃん見ててくれた。で、森田さんは信頼できる人だから、建ててやれって言ってくれたんだって、あとから聞いた。

 

  そのあと、イッセー尾形の一人芝居はどんどん評価されるようになっていった。足の最初の病気のあと、7,8年たったら、神戸のオリエンタル劇場500のキャパの4ステージ満員とか、大阪公演なんて10日間とか。うちはね、ずっとやっていけるかわからないからって、スタッフや現場の人に割りとたくさん払っていたの。でも、雄三が50歳くらいのときね、脳溢血で倒れた。そしたら、蜘蛛の子を散らすように人がいなくなったの。ちょうどそんなとき、長男が学校いかなくなって、長男の友達で同じ不登校の子と2人をスタッフにして7年くらい興行したかな。

 脳溢血のときね、奥さんはいつも明るいから、大丈夫だよね、って言う人がいたの。でも声で意味がわかった。その人は「自分の方にもたれてこないでね」って声が言ってた。防御の言葉だよね。これまでの演劇って、防御してる人の心情をテーマにしているものが多かったように思うの。でもそのとき、防御される側に回った弱い人間が、なけなしの知恵とか本能をつかってなんとかしようとする、そういうことを演劇にしてみたいと思った。

 イッセー尾形の一人芝居も、演じる人は一人で、防御される側からいろいろな人間を描いてみて、みんなが見に来てくれたんだと思う。

 ワークショップもね、防御される側から何かを描こうとしているんだと思う。

 

 悲しみ?そういうのって、見えたりしない。深すぎると見えない。もっと目の前のことを一つ一つ片付けて一日が終わるって、そうしてそれが喜びになるってことだと思う。

 でも、確かに私にも知恵があったかもしれない。

自伝が好きなのよ。小学校、お寺を壊した建物を使った分校で、1年から6年までで78人しかいない学校。遊んでも楽しくなかったの。で、お寺のへやを使った教室が6つと職員室が1つ。それから給食室と井戸をはさんで図書室があったの。緑色の井戸から水くんで呑むような感じだった。給食室をのぞきこんで縁側から見てたな。図書室には伝記だけそろってて、リンカーン、ファーブルとか、男の人の伝記多くて、低学年から繰り返し繰り返し読んだ。偉人がなしとげたことって、苦難をどういうふうに自分の方法論で解決したかってこと。それを刷り込まれてきたかな。解決がユニークであるってことを認められると。だから、その頃から、自分で考えだした解決法が大切って思い込んでるかも。

 

 雄三が脳溢血で倒れたとき、人が、有名な占い師に見てもらったらしいの。私と尾形と雄三ね。そしたら、私だけが男の人だって言ったらしい。この人はやくざの大親分かなにか。この大木が倒れたら大変よとも言われた。その占い師、あとで私がどんな人間か会いに来たのよ。苦難を身に受ける人と占いに出たって言われたわ。