森田雄三Mws#28 死の床 | イッセー尾形・らBlog 高齢者職域開拓モデル事業「せめてしゅういち」

森田雄三Mws#28 死の床

人の死を芝居にすると

ワークショップでは、人が死ぬシーンがたくさん出てきます。大体が東京や大阪から離れた土地のワークショップ公演で、シーンは最後の方に配置されることが多かったように思います。

雄三さんが40歳で足のガンになり、傷が治らずに何度も入退院を繰り返し死ぬことを覚悟した経験は、このブログの読者にはよく知られているでしょう。そのとき何度も覚悟した死とどうやって仲良くなるか、を考えてここまでやってきたのかな、と思うことがあります。

高度経済成長やバブルに浮かれて、死を忘れよう見ないようにしようと否認する文化を発達させた日本の現状に、優しくストップをかけるような芝居作りをしてきたと思うのです。芝居の中の死の床のシーンは、どこか明るくて、あちゃらかのところがあるのに、ウソっぽい感じがありません。ヨーロッパの教会には、しばしば、本物の頭蓋骨が装飾として埋め込まれているそうですね。壁のレリーフにも骸骨が掘られています。日本でも、地獄図とか、人が死んで腐敗し膨満して、やがて骨になり、犬にくわえられる過程を絵にした九相図とか、それを小野小町で描くとかがあります。死を忘れるな、というのは人間の文化の根底にあるはずのテーマなのでしょう。でも、近代化の中で私たちはまるで自分には死が訪れないかのように、死ぬ場所を病院に限定し、葬儀も業者に任せて死者と向き合わない工夫をしてきました。

阪神淡路大震災が起こったとき、私たちは自然の力の前に、自分たちはなすすべもなく死んでいくということを、改めて認知したのではないでしょうか。昭和20年に戦争が終わり、その時にたくさん人が死んだことは、いつのまにかお伽話のような昔のことと考えるようになりました。さらにオウムのサリン事件が起こりました。病院のベッドでそっと看取られていた死が、白日の元にさらされ、自分もまたどのようにして死を迎えるかということを考えずに置けなくなりました。

そうして、20113月、東北に大きな津波がやってきました。波に飲み込まれる家や人を同時にニュース映像で見ることになりました。どうしようもない死。

死に仕返しをされたような気がします。日常に人の死を受け止める文化を葬ろうとしていた日本の21世紀に対しての仕返し。しばらく、これまでのワークショップにおける死の床のシーンを取り上げてみたいと思います。以下、2006年12月の札幌ワークショップレポートから。ワークショップ全体の空気を知ってほしいので、1つ前のシーンから掲載します。

集会

ごみの分別について話し合うことで集まった町内会の面々。そのまま敬老会のメンバーでもあるらしい。こにくらしい口をきく人もいれば、すぐ激昂する人もいて、でも、みんな人となりをしっているらしく驚く人もいない。プロレスのお決まりのにらみ合いみたいな感じ。やがて、敬老会の出し物の話題にシフトすると、おとなしかった人もみな主張し始める。それが、みんな小学校か中学校のときの経験ばかり。臆面もなく子ども返りしているらしい。勝手に歌いだす変わり者をおいといて、みんなでうんこらしょ、どっこいしょ、と英語劇で大きな蕪を演じだす。

死の床


じいさんが自宅で死を迎えようとしているらしい。老女医が枕元にすわり、脈をみる。ばあさんや縁者の女性たちが、口々に思い出話をする。もう死んだか、と身を乗り出す二人に、女医はまだ生きとるという。しかし、時間の問題でもあり、どこか、そろそろという空気も流れる。まだ生きとる、と聞いて、じいさんは起き上がる。かっぽれかっぽれ、と右左に踊りだす。じいさんのこの世の最後の夢である。幽体離脱したかっぽれ踊りが収束して、緊張がとぎれたのか、ばあさんまで歌いだす。

「愛してるって♪」

もう一人のばあさんは、じいさんが好きだった動物の話から、やがて好きなもの尽くしの話題になっていく。

「じいさん、牛のももこをかわいがっとったね」

「あとは象がすきだった。パイーンてなあ」

医者も言い出す。「わしゃ、ゴジラが好きだった」とゴジラのうなり声。

私はドラえもんが好きだった、とばあさま。

♪そんなこといいな、できたらいいな、あんなことそんなこといっぱいあるけど♪

ドラえもんは、死ぬころの大人たちが自分の人生をいとおしむ歌だったのだ。