雄三です。僕の育った環境 | イッセー尾形・らBlog 高齢者職域開拓モデル事業「せめてしゅういち」

雄三です。僕の育った環境

  

 僕は白山連峰と日本海に囲まれた扇状地の田んぼ地帯で育った。浄土真宗の本場で、どの家にも床の間と同じ大きさの仏壇があった。仏壇を拝むのは西方浄土に手を合わせるようになっていたから、座敷の西側に仏壇が据えられていた。だから玄関は東で、南側に庭があり、北側は裏庭になっていた。

 集落のどの家も、同じ造り。窓ガラスのある家は少なく、障子や板戸、雨戸が室内と室外を分けていた。外部の人は、玄関土間や庭先、勝手口、裏庭から入ってきた。まぁーいうならば、プライベートがなかったってことであり、秘密という概念もなかったのです。

 この山と海に囲まれた小宇宙で、生涯を終える人がほとんどで、都会に働きに行くのは「出稼ぎ」のようなものだった。父親はそんな地の貧農の長男で、隣村の没落した造り酒屋の3番目の娘が母親だった。

 耕す土地もなかったような家だったから、両親は田舎の教師として働き、その後、一族のほとんどが教師になっている。僕の兄と姉も教師だ。

 プライベートがない土地で、教師の子供たちは「皆の手本」となるように育てられる。「勉強が出来る」のは当たり前として、喧嘩の仲裁役になるよう躾けられる。教師の子供は「ミニ大人」になるのが良しとされるんですね。



詰まらない人間になるという事であり、思春期にはこの土地を抜け出す事ばかり考えていた。で、18歳の時に、東京でプロの俳優になる為に、リュックサック一つで上野行きの夜行列車に乗った。

西洋演劇専門の新劇の劇団に入ったということは、僕は自分の過去を抹殺しようと思ったのだろう。根っからの都会人のように生まれ変わろうとした。方言を捨て、標準語を習得し、バレエに声楽と、西洋人の真似を付け焼刃のように習得しようとした。

そんなものが続くわけもなく、上京して数年目で孤立無援の状態となった。

忘れもしない、木造アパートの畳の上にノートを広げて、演劇をする為の計画をしていたが、もはやどん詰まりを悟った。まず金がない。劇場費、稽古代、舞台装置、証明費、役者のギャラ、などなど、どう節約しても、途方もない金が掛る。それに、タダ同然で出演する役者がいるだろうか? 出演者に合わせて台本を捜さねばならない。



畳の上のノートは消されては書きで、もはや判別不可能になっているし、何をどう考えても「僕には芝居が出来ない」の結論しか出てこない。

半日ばかり、畳に座っていただろうか、その時にコペルニクス的な転回が起こった。「既成の芝居に自分を合わせるからダメなので、自分に芝居を合わせればいい」。これが「一人芝居」のスタートだった。劇場もいらない、稽古場も、照明も装置もいらない。必要なのは役者一人に、演出家一人。これで芝居が成立するのが分かった。

自己否定が自己肯定に向かう為には、発明というか、「新しく生み出す」以外にないということね。

この発想の転換を生み出したのが、故郷を離れたというか、故郷を捨てたことが関係しているのです。僕には「故郷への裏切り者」の意識があったから、故郷の人たちの「変わらぬ親密さ」を、僕はありがたく思ったのだろう。変わらぬ海や山にも、あふれ出るような感謝が湧いてくるのです。