森田雄三Mws#20もひとつ阪神淡路大震災とMワークショップ | イッセー尾形・らBlog 高齢者職域開拓モデル事業「せめてしゅういち」

森田雄三Mws#20もひとつ阪神淡路大震災とMワークショップ

1996年、神戸新開地に新しくできた神戸アートビレッジセンター、KAVC。

震災で旧市街の中心地がほとんど壊滅した中に、震災前に計画されていた施設として開館したその最初のイベントがワークショップでした。その経緯について、当時神戸市民文化振興財団のプロパー職員だった岡野亜紀子さんが、書いてくださいました。以下投稿。



雄三さんの初めてのワークショップについて、私もいろんな記憶が蘇ってきました。

ブログでは、最初のワークショップは1996年9月となっていますが、正確には1996年4月です。

本当にオープニングのイの一番のプログラムでした。

まだ震災の傷跡が至るところに残る神戸新開地で、でも震災後にオープンする唯一無二の文化施設として私自身興奮しながら(躁状態?)仕事をしていたと思います。

ワークショップという言葉も、その頃ようやく一般化しかけてましたが、まだ関係者らしき人からも「何を売るの?」と聞かれたことを思い出します。

雄三さんのワークショップをするまでのプレイベントでは、当時はまだ予算が潤沢にあった神戸市の事業として、蜷川幸雄、つかこうへい、鴻上尚史、宮本亜門などのワークショップをやっていまして、そのプレイベントの最後が1994年の11月。年が明けて1995年1月17日の震災でした。

あの震災で「私、何やってるんだろう?」と、夢心地から無力感のどん底に一気に落ち込んで、とにかくリュックに水筒とおにぎり詰めて、する事も無く、人が集まるところに出向いていたように思います。

でも95年の秋ごろから、アートビレッジの準備室が再び動き始めて、過剰な使命感とぬぐい難い無力感を抱えて躁状態で仕事を再開しました。



そんな中で出会った雄三さんのワークショップ。ホントに面喰いました。事前の情報も楽器持ってきてということだけで、人数制限も無ければ、集まった人に名乗ることも無く、いきなり「歩いて」と会場を対角線上に歩かせ、中に演技っぽいことをする人があれば「そんなのはいりません!」の一言で一刀両断、当然(?)楽器も使いませんでした。

主催者としては正直大いに戸惑いました。そして最終日に「また来週来ます」の一言!!

戸惑いまくっている私の背を押してくださったのは当時の館長・吉田さんです。

かたくなに役所の事務服を着て館長席に何も言わずに石のように座っているだけのような人でしたが「オカノさん、やってもらい」。予算が組めてませんと言うと「お金の事は後や。森田さんがやるって言うてはるんやから、やってもらい」「あの人は他の人とは全然違う。そやけど以前一度だけ会うたことのある芥川也寸志さんと同じ感じがするんや。あの人が言うてはるならやってもらい」。そう言われました。

吉田さんは常々「自分は、ずっと福祉畑で文化の事はまったくわからん」と仰ってましたが、お酒の席では人が変わったように饒舌で、後々知るところによると大学時代からオーケストラでファゴットを担当されており、一度だけ空いてるホールの楽屋で練習されてる姿を見かけたこともあります。(その流れで芥川也寸志さんにもお会いになったのでしょう)

そして震災当時は、被災度合いが激しかった神戸市灘区にある養護施設の事務局長をされており、その施設の講堂が遺体安置所になっていて、毎日集まってくる人たちのお世話をされていたとのこと。その時、窓の白いカーテンが揺れてたことが印象的で、安置所の役目を終えてからもカーテンに臭いがこびりついていて、未だに自分の鼻に、その臭いが残っていると言うことでした。

今思えば、吉田さんの一言が型破りな森田ワークショップがアートビレッジに根付く大きな要因であったと思いますし、その吉田さんが日常的に死と向き合う経験をされていたことが、雄三さんという人の本物を見抜かれたのではないのかなぁと思います。

岡野 亜紀子