#18 まだまだ阪神・淡路大震災とMワークショップ
吉村順子
阪神淡路の震災から20年が経ちました。昨日は神戸ではたくさんの慰霊と祈りの集まりがあったことと思います。私は神戸っ子です。父も母も神戸の生まれ神戸の育ち。ふるさとの容貌が一変したあの日、たくさんの方が無残に亡くなり、仕事を失い、家が焼け仲のよいご近所さんもばらばらになったあの日。震災の記憶を持ちながらこの20年間の間に亡くなった方のご冥福を祈ります。
昨日は、祈りの日を、と思いましたが、弱小大学に勤務しています。全員体制でセンター入試にあたりました。緊張しまくり。受験生が?いえ、まあ、自分?同僚?
1秒くるわず開始し、終了する合図を送り、出来事には、膨大なマニュアルにしたがって過たずに対処しなければなりません。報道で、うっかりミスを避難されていますが、どう考えても、記憶容量の限界が縮小している人間には太刀打ちできない事態。これをまあ、ほぼ完璧にこなす、受験生も、それを支える学校や予備校、そして私たち会場スタッフも、相当にすごいです。
前夜は緊張して夜中に目がさめました。で、思い出しました。震災後数年間は、1月16日4時か5時に目が覚めてしまうのでした。そして、揺れたその時間が近づいてくる、逃げて、起きて、と何者かに祈ってしまいます。祈ってもどうにもならないのですが、1年という時間がめぐると、何かがまたやり直しできるんじゃないか、と思ってしまうのですね。
家族の身体には被害がなかった私でさえ、神戸の地震による喪失感は大きく、それは、のちに、他の地震被害や、水害や、大火事や、事故などで被害を受けた他の土地に対して心を向けることにつながっていったように思います。自分のこととして書いているけれど、これは、被害を受けた人に共有される気持ちだと思います。
健康な人、富裕な人、幸せな家庭を持っている人の情けは混じりけがなく、美しいと思います。一方紆余曲折のある人生を送った方が、他者の災難に対して言葉をかけ援助をするとき、それはとても素直に困っている人へと届く気がします。うまく行かなかった記憶、生きて老いて病んで死ぬことを充分に見てきた人の援助はありがたいものです。何も言わなくても、
「あなただけではないよ」と伝わるからでしょう。
神戸は健康な、かっこよい街だったときよりも、今は他者に寄り添える街になっているのではないかと思います。たぶん、私たちは、自分の身に起きた大きな不運を通じて変容していくのでしょう。ソレを以って、不運をポジティブに評価することなどできないとしても。
神戸アバンギャルズの松尾さんに、1996年に神戸KAVC、アートビレッジセンターにおいて3日間開かれた素人対象の雄三による演劇ワークショップの始まりを思い出してもらいました。発表公演で、3人の女性がくっついて無言で押したり振り向いたりのシーン。雄三さんも「それなに?」と尋ねたのに、女性たちは、「列に並んでいるところです」と答えたと。それを雄三さんが、「いいね」と評価した。いくつかの小さな湧き水の一つがこの場面だったのでしょう。そこから20年にわたる森田雄三によるMワークショップが始まったのだと思います。
同じ投稿日16日、世田谷楽ちん堂カフェの仕込みとランチの間の短い時間を約束してプロデューサーの森田清子に電話で、1995年1月のことを聞きました。何度も何度も繰り返しせがんでしてもらう、私のお伽話でもあります。
1月26日に、神戸で予定していた200席ほどの公演キャンセルの連絡がつかなかった4,5人のお客が、もしかしたら会場に来るかもしれない。公演はできないけれど、そこへ行ってまっていようとイッセー尾形と清子は大阪から船に乗って神戸に入り、港のそばの会場に徒歩でたどり着いて・・・
これは1月16日の投稿、森田雄三Mws#17を開いて読んでみてください。そこから森田清子もまた、演劇を志向しない人にも向けて、なんでもない日常そのものを文字にし、自分を再生していくような何かをしようと、夜、何時間かかるかわからない三宮から大阪に向けての満員のバスで思った
というのです。
そして、それに対しての「雄三です」という投稿。
雄三さんが41歳でガンになり、手術の傷がうまく治らずに何度も入退院を繰り返し、建築関係の会社をやめて、というころ。山崎努さんから、シェークスピア劇の演出を頼まれ、張り切って演出し、演出家として生きていけると高揚したものの、その後の依頼はなく、というときに、1996年9月、神戸新開地でのKAVCワークショップ講師を頼まれたのだと。失ってしまった神戸という土地で、こう思ったというのです。
「多分、僕はもう一度生き直すような思いだったのだろう。再生に光を当てる実感を持ったというのかな。」
神戸の再生に光を当てる作業を依頼されたことで、森田雄三自身がもう一度生き直す思いを持ったというのです。
とすると、Mワークショップで、演じ手が自分の滑稽な悲劇やコンプレックスを角度を変えて見てシーンに仕上げた、その舞台を見る人もまた、自分の中の意固地さや、滑稽な思い込みを優しく放棄することができるのかもしれない。演劇という場で生じる相互への作用。
そして、神戸アバンギャルズのメンバー、タエ嶋くんと、石田さんが、アバンギャルズが始まったときのことを16日の投稿へのコメントとして書いてくれました。引用しておきます。
石田香織
阪神大震災当時、大阪の劇団の舞台に出演予定でしたが震災にあって大阪に通えなくなりました。電車も不通の区間が多かった。1ヶ月程して本番が近くなり劇団から電話で「地震は収まったのに稽古に来ない。あんたはやる気があるのか?!」と連絡があった。こんな状況やのに何言うてるん?と思いつつ、友人にバイクで送ってもらって、かなり遠回りしながら電車を乗り継いで大阪に行ったら街が明るくて、普通に店が開いてて賑やかで、神戸との落差にびっくりしたな。そりゃ「何で稽古に来ない」って思うよなと。
大阪でそんな感じやから、近畿以外の地方とはもっと落差があったのかも。その時期、兵庫の住民には取り残された感があった気がする。街が一瞬で崩壊して、職場の環境が一変して、取り残されて…そんな神戸の街で始まったワークショップやってんな…と20年目にして今更再認識。
3日間のワークショップを終え、翌週から始まった稽古では「親と子」がテーマだった気がする。印象的やったのが雄三さんが「あんたらは親を憎んでるでしょ?親も子供を愛してないしさ」それに対して「そんなん言うたら親が可愛そうやわ」と言った人がいたな。で、雄三さんが「親に妊娠したって言ってみてよ」と宿題を出しました。
早速夜にリビングでくつろぐ母に「私、妊娠したみたいやねん」と告げました。
そしたら母が「ざまーみろやわ!」と。「え?お母さん…ひどい…」予想を裏切る母の言葉。「じゃ、なに?あんたお母さんが妊娠したら何かしてくれるん?」「お母さん…最初の結婚で四国に嫁いだやん?その時さ…」と話は母の昔話に…その時の母のイキイキしたかんじ、今思い出してもかなりウザイです。
翌日の稽古で雄三さんに報告すると「えー?本当に言っちゃったの?」結局参加者で宿題を実行したのは私を含め2人だけやったな。
妙嶋誠至
キャスティングがあって、台本があって、稽古期間があって、装置があって、本番をむかえる既存の演劇スタイルは、お金と時間がある人がやればいいとして、お金も時間もかけれない、役者も揃わない条件だからこそ完成された、「イッセー尾形の一人芝居」の方法は、素人の集まりであれ短期間で既存の演劇以上にお金を貰うにふさわしい演劇(本番)ができる。ケンカ腰ともとれるシンプルでストレートな本番を作ることだけに意図した演出家に対して、本番を一緒に作り上げる意識もなく、言葉通りに、お手伝いに来ちゃったフランス帰りの僕ちゃん。なんまんだぶ、チーン。