森田雄三 Mws #17 森田清子と震災と演劇 | イッセー尾形・らBlog 高齢者職域開拓モデル事業「せめてしゅういち」

森田雄三 Mws #17 森田清子と震災と演劇

森田雄三 Mws #17 森田清子と震災と演劇

何度も聞いた話しなのですが、何度もせがんで繰り返し聞かせてもらいます。1995年1.17の阪神淡路の震災の直後、イッセー尾形と森田清子は、船で神戸入りしたのです。以下、清子の口調のままに掲載します。

神戸にはね、1月26日に入ったの。もともと、神戸の港のそばの産業会館てとこで、会員だけを対象とした小さな公演を予定していたの。もちろん、中止。で、会員対象だったから、予約者全員に電話かファクスで連絡を取ったの。そしたら、4,5人だけどうしても連絡がつかなかった。今と違って、携帯電話が普及していなかった。もしかしたらその4,5人は来るかもしれない。もし、自分たちもそこへ行けるならば、公演はできないけれど、その場に居ようということになったの。

1月24日は大阪の公演だった。その公演はキャンセルにはならなかった。でも、天王寺のホテルで、泥だらけのスーツ姿の男性が、ロビーのソファに倒れこむように眠っていたの。ホテルの人もだれも出て行けとも言わなかった。ああ、今ここでは大変なことが起こっていると思わざるを得なかった。

道路も鉄道も不通だったから、大阪から船に乗って神戸に入ったの。港から歩いて産業会館に行った。イッセー尾形と私、森田清子と、神戸芝居カーニバルていう企画グループの代表だった中島さんと米川さん、この4人でとにかく、来る人がいたら、事情を説明しようということで会館に行ったけれど、もちろん、一階ロビーに簡易トイレがびっしり並んでいて、人が寝ていた。避難所ではなくて、全国から復旧応援に来た電気工事の人の宿舎になっていたみたい。

記憶に残っているのはね、年寄りの作業服の人を、金髪の若い作業服のお兄ちゃんがおんぶして、会館に帰ってくるところ。おぶわれている人は、昼間は電気の復旧のために働いて、で、もう疲れきって歩けないの。

もう、これは待っていても、誰も来ないことがはっきりしたから、4人で三宮まで歩いた。瓦礫だらけ。三宮の角っこのビルの全面ガラスが全部割れて、通りにガラスの山ができていたり、道は敷石のれんがが飛び上がったり、凹んだり、うねっていた。

焼き芋屋さんが来て、2本買って、4人で半分ずつ食べたの。今日最初の食べ物だね、って。で、大阪から中島さんに電話してたのね、そのとき、何が必要か聞いたら、猫の餌がなくて、って。で、豚肉をたくさん買ってもっていった。そのことも自分では忘れたけど、それから何度も中島さんが、あのとき豚肉をたくさん持ってきてくれた、というから覚えている。

歩いていたら、銀行が、もう暮れて銀行の中真っ暗だったの。そこから

かわいい かわいいさかなやさん

ってテープが聞こえてきた。ああ、もう、だれの手伝いにもなれないって、思った。

三宮から大阪に帰るのに、バスに乗らなくちゃいけない。でも、何時間も並んで、満員で、立っているの。ちょっと高台の方の道を通って。あたりは真っ暗で、一箇所光がついたテントが見えた。NTTが携帯電話を配っていたの(当時、神戸ではほとんど無料で携帯電話が配られたけれど、加入料が今と比べると驚くほど高かった)

そのバスの中で携帯を持ってる人がいて、その人に電話がかかってきた。そしたら、

「そうかそうか、大きくなってたか、良かったな」て話してて、みんな聞いてたの。想像するじゃない。何が大きくなったのかな、って。

演劇することと、人を助けることと、表現ってなんだろうと思った。もう身体で考えてた。

そのあと、身体文学ってワークショップを始めるのも、そのときのことがあったからかもしれない。

舞台に来れない人や、舞台に興味のない人も、いつかこの経験を文字にしたいとお思うだろう。あふれる記憶を聞いてもらいたい、でも、聞いてもらうのをためらうでしょう。なら、書き起こすことが再生につながるんじゃないか、って思った。

ドキュメンタリーじゃなくて、物語として再生すると思ったんじゃないかな。