漆黒の闇 | いしだ壱成オフィシャルブログ『Arrivals』powered by アメブロ

漆黒の闇


三月に入ってから、なんだか
鬱々とした日々が続いています。

とはいえ、何も深刻なことが
あったとかそんな事ではなくて、
4月25日から本番を迎える
角角ストロガのフの稽古に入った
から。

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http://kakukaku.tv/stage/tokei/

(☝︎特設サイトが出来ました)

そう。

とうとう、というかなんというか。

角角に参加するのは二度目。

自分の短いキャリアの中でも、期間中、ここまで精神状態がままならない状態になるカンパニー(座組み)は
なかなか無いものでした。

自ら(格好良く言えば)追い込んで、
そんな精神状態で立つ舞台は多々ありましたが、なんというか稽古場に
足を踏み入れ、しばらく没頭しているうちに、自分の拙い脳みそが
分裂を始めて、その日の稽古が終わる頃には、まさにゾンビと化して
いる自分がいます。

因みに、このカンパニーの主宰は
角田ルミさんという若い女性で、
忌憚なくいうと可愛らしい見た目からはまるで想像がつかないほど、がちんこにイカれた脳みそを搭載していらっしゃる方なのです。

一体何を考えているのか。

清々しい笑顔のその奥で、一体何を
感じ、そして何を罵倒し、ほくそ笑んでいるのか。時たま怖気が走ります。

角田さんのえぐり出す狂気と矛盾が満ち溢れる、一片の愛の欠片もない世界観あるいは演劇観。

前作『ディストピア』@吉祥寺シアター 2013年8月 では、
善と悪の狭間で狂気を帯びていく
ストーリーのなかで心身共に愚弄される役をいただき、私生活などもはやずたぼろになるほど、角田ワールドに浸りました。

そして、その千秋楽を迎えるか
否かという時に本作『時刑』のオファーをいただいたと聞いています。

先ほどから随分と否定的な言葉を並べていますが、ある種のほめ言葉
と受け取って頂けたらと思います。

というのも、この方は天才だから
です。

いや、奇才としておきましょうか。

彼女の作風そのものが自分が中学の頃に傾倒した寺山を始めとするアングラの要素を最大限に含みつつ、ほぼ全ての役者が照明、音響と舞台上のあちこちで同時進行、可能な限りの高速なスピードを伴って進む斬新なシーン展開で、なおかつ演劇なのに極めて映像的。

観客の胸くそを極限まで悪く
させて帰す、というコンセプトも
共感しています。

僕は性格が悪いのでしょうか。

いや、きっと作品がそうさせるのかも。

例えば前作、文学座出身の長田紫乃と増岡裕子率いるI.N.S.N.企画(いなせなプロジェクト) 舞台版 破産 @新宿タイニイアリス 2014年2月 では
少人数での座組で極めてストレートなプロ意識が強く、尚且つアットホームでポップな(台本の内容はそうでもなかったけれど)稽古と本番を経験させて頂きました。

逼迫した状況あるいは気持ちに一度たりとも陥ることなく、落ち着いていてピースな気持ちで日々作品に黙々と取り組み、自分なりに良い意味でスローな、ロハスなスタートをきった感があった2014年。

しばしのお休みの後にこちら角角の現場へ来た稽古初日の帰り道には、何故だか冗談抜きで数回、路上へ嘔吐しそうになりました。

なんなんだ?こりゃ。

いつから俺はこんな憑依型の役者に
なったんだ?

いやいや、この稽古場というかそこにいる役者(人々)がこれから味わうであろう底抜けに暗くて気味の悪いどろどろとした漆黒の闇が無遠慮に放つ瘴気にあてられたのか?

それでもなんでもいいけれど、地獄の日々の始まりのエネルギーが短略的に身体を包み込んで、吐き気を
催させたのだ、と確信的に理解して
いました。

そしてそれ以来、それはほぼ毎日続いています。

稽古後の吐き気、目眩、倦怠感、罪悪感、あらゆる人や世界に対しての不信感、行き場の無い怒り、そして何より猛烈極まりない眠気、全てをぶっ壊したくなるほどの混乱。

いくら塩風呂やら温泉やら冷水やらに浸かったりして浄化や解毒を試みても、全然無駄なのだから困ったものです。

一昨年くらいから特に舞台に
おいて霊的なものを著しく感じ始めました。

折下むやみやたらと全国各地の神社仏閣を巡礼していた頃でもあったから、何らかの目に見えないエネルギーだとかいわゆるその土地の御神気の様なものに影響されて、そのようなパワーが身に付いたのかもしれないけど、何も定かではないし。

そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

わからないし、わからなくていい。

もちろん芝居中に霊が見えるだとかそんな低俗なことではなくて、より深く舞台空間や周りの役者と共存共生するために、氣の様なものをコントロール(出来る限りですが)しながら演じる様になりました。

当然稽古にも影響してきて、煮詰まって来ると相手の役者との間に漂う空気の色やオーラ(スピってる訳でもそんなつもりでも無いので的確ではないけど他に表現する言葉が思い浮かばないのでとりあえずこう表記)の色、何をどう考えているか感じているのかが如実すぎるほど見えたり感じたり。

ああ、こうか。そうねそうね。
なるほどなるほど。

ともすると心の声まで聴こえる
始末。

いやわかってます、わかってますってば。そのつもりです。はい。
もうちょっと探らせてください。

一体、みんな役者さんはどうして
いるのだろう?感覚の仕事だから、
同じような人は山ほどいるだろうに。

人数の多い座組に放り込まれた日には、ラジオのチューニングの様にそこに居るスタッフや役者の思念が言い方はよくないけど、まさにノイズとなって聴こえるのでもううるさいったらありゃしない。

本番を迎えたら迎えたで、それに加えて観客のありとあらゆる思念までぴゅんぴゅん飛んで来るので、もう手に負えない。

とうとう客席からの膨大なエネルギーまで受け取る様になってしまったのか。否か。

波長の合う(波動の良い?)お客様が比率的に多い公演では、利用してその客席からのエネルギーをぐいぐい押してみたり、引きつけてみたり、ドン引きさせてみたり何かと遊ぶことができるので、それはそれでなかなか楽しくて。

そうじゃなかった比率の公演は、
結構要らない部分を頑張っているし何かが硬いのでただただ悔しくて。

でも最近はようやくバリア?の張り方を覚えたのかそれを聞き分ける耳と脳を持たせてもらえたのか、さほど左右されることなくなって来た気もしています。

とはいえ、題材に大きく影響されることはやはり多いにあると思います。

ピープルシアター 蝦夷地別件
@東京芸術劇場 2013年10月。

血塗られたアイヌ先住民の悲劇を描いた作品でした。

僕の役はハルナフリといって、序盤の朴訥な少年から成長して行ってありとあらゆる裏切りを経て精神が破綻、劇の終盤には涎を垂らしながらウタリ(同胞)をも切り刻む、文字通り血も涙もない復讐の悪鬼と化す途方もない物語のなかの途轍もない人物を演じさせて頂きました。

霊的感覚の強い友人は、悲劇的な死を遂げた無数のアイヌの人々の魂の浄化が壮大に行われたんだと言っていました。

そうだったのであればその甲斐もあったと感じるけれどそれほどのものがあったのだなあと鈍感を装う自分でも流石に理解できたりもして。

どしーん、と乗っかって来るんです。ずしんと。岩の様に。

かんべんしてよー。

と思うけど劇を始めたからには存分に演じて、終わらせなければなりませ ん。

たとえ、終演後舞台袖で気絶しよう
とも。です。

毎公演カーテンコール後、舞台袖に引っ込むと、そこで断片的な記憶と一緒に倒れこんで、汗なのか涙なのか多分両方だと思うけど、身体中の穴という穴から噴き出して来る水分の熱さを感じながら遠のく意識のなかで立ち昇って行く水蒸気の様な何かを、終演後の喧騒と嬌声をよそにただただぼうっと仰向けに見つめていました。

そんな状態の僕を毎公演、酸素ボンベ片手に黙って見守り続けていてくれた舞台監督さんや、自分だってさぞかし疲れてるだろうに手を丹田の上に置いてくれて僕の意識が戻るのを待ってから、楽屋まで背負って行ってくれた仲間の役者さん達にはいくら礼を言っても足りないくらいです。

ガチな話、この蝦夷地別件の初日公演直後に父と義母の顔が楽屋口に見えた途端に何かが外れたのか大声で二人の膝を抱えて赤子の様に泣き出してしまって、恥ずかしい限りでした。

話を戻して、要はノーガードなんだと。

ノーガードでサンドバッグみたく、ぼこすかとぶん殴られている感覚なんです。

ネタバレしたくないし、もうこれ以上をいうのは無粋だから言わないけど、フルノーガードで挑む暗黒極まり無い角角ストロガのフ、時刑。

正直、正気を保っていられる気が
一切しません。

病院送りになっても仕方ないと、
結構体感してもいます。

どうしてそこまでして、と義母の理子が(多分)リスペクトをこめてLINEをくれました。

なんででしょう。

馬鹿なんだと思います。

そこまでして初めて、自分の存在を
確認出来ているのだと思います。

世間様のお役に立ててるのかな、とか。訴えたいこと、訴えられたかな、とか。

そんなような感じです。

photo:02




時刑の稽古、顔晴ります。


愛と感謝をこめて。


壱成