カルタゴの人々 イメルダ・フォーリーに捧ぐ | いしだ壱成オフィシャルブログ『Arrivals』powered by アメブロ

カルタゴの人々 イメルダ・フォーリーに捧ぐ

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砂のクロニクルより 撮影 奥村よしひろ


ピープルシアター第54回公演

『カルタゴの人々・イメルダ・フォーリーに捧ぐ 』

1972年1月30日、世界のニュースに発信された『血の日曜日事件』公民権運動デモ行進中の一万人に及ぶ非武装の北アイルランド市民にイギリス陸軍落下傘部隊が発砲。当たり前である筈の自由と権利を訴えていた、何の罪もない尊い14名の命が武装したイギリス兵士の弾丸によって無残に奪われた。

「私が死に、土に横たえられる時」ヘンリー・バーゼルの歌劇のメロディーが聞こえてくるなかで、北アイルランドの都市、まるで廃墟と化してしまったデリーの街の中にある墓場がたち現れる。そこには、生きているのか死んでいるのか判然としない女たちや男たちがたむろしている。過去に縛られ、現実を見つめようとはしない彼らの心を動かしたのは、「血の日曜日」の事件後、この墓場にふらりと現れた一人の男だった。

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http://peopletheater.moo.jp/newpage2.html


前作『砂のクロニクル』から約半年。

残酷な血の日曜日事件の後、北アイルランド市民の誰しもがショックや喪失感に苛まれて生きているのか死んでいるのかわからない灰色で虚ろな北アイルランドはデリーの街角の片隅、太陽でさえも真っ赤な血の色に染まる墓場に行き場も無く、ただただ虚ろに居続ける人々。

その果たして地獄なのか、それとも現実世界なのかわからない墓地で繰り広げられる、いわば失われた魂の復活を鮮烈に描く本作。

稽古場では、ピープルシアターという演劇集団の醸し出す独特のどす黒い空気感、苦悩と苦痛、憎しみと憤怒、そして自己破壊と自己再生の連続。何が正しいのか?何が生きるということなのか?何が希望というものなのか?何が絶望というものなのか?冷たい埃と汗に塗れた稽古場の床に向かって自問自答しながら、劇作家がひたすらに追求する、この今の日本という国の撃ち続ける創作スタイル『テアトル・ノワール』 (フランス語で真っ黒な:犯罪的な:演劇:を指す ) なる概念を体現するべく自分を見つめ、戒める毎日です。

舞台『毛皮のマリー』『ワンダリング・アイズ ~ ボスマンとレナ』からのお付き合いである演出家、森井睦さん率いるピープルシアターの作品に出演させて頂くのは、本作で二回めになります。

前作『砂のクロニクル』は自分自身、この混沌の日本に生きる人間として、また一人の俳優として、削れるものをすべて削って本番に挑みました。ある意味では、命がけの作品となりました。

迎えた千秋楽のカーテンコールでは、もはや舞台に立っていたという記憶すらありませんでした。そんなことは生まれて初めてでした。
おそらくはそれ程に、生き切っていたのだと思います。
唯一おぼろげな記憶があるのは終演後、両国シアターカイの舞台袖に下がった瞬間その場にぱたりと倒れ込んだ僕を共演者たちが抱き起こしてくれて『もう終わった、終わったんだ、大丈夫だ。俺達は生き残ったんだ!演ったんだ、終わったんだ、もう大丈夫だ!お前は生き残ったんだ!』とそれぞれが涙をぼろぼろ流しながら叫びあっていた事だけでした。

しかし僕は俳優として、また人間としての自分の弱さを何十発もの銃弾で撃ち抜かれた様な感覚でいました。甘すぎる。ナマぬるすぎる。青すぎる。

自分自身の持てる全てを削って削って削ったその果てに、劇場に足を運んで下さった観客に何かを持ち帰ってもらうことが出来たのだろうか。今回こそは。今度こそは。そんな想いを毎日、胸にどろどろと抱いています。

そんな自分自身にとってある種のターニングポイントとなった前作『砂のクロニクル』について、古くからの演劇仲間であり、演劇プロデューサー、また近畿医療福祉大学教授でもある石田和男氏がわかりやすく的確で有難い論文を寄せて下さいましたので、より僕自身の演劇観の理解を深めて頂くため、ここに転載させて頂きたいと思います。
以下、転載です。





悲劇のノーマディズム『砂のクロニクル』を観て

石田和男 (近畿医療福祉大学教授・演劇プロデューサー)

2006年にこの作品が上演された時には残念ながら観ていない。
今回の上演には一緒に仕事をした仲間たちも数名参加している。
ついつい彼らの演技に目がいってしまう。
森井演出はプロセミアム様式の舞台を解体したいという欲望が感じられる。舞台をできるだけ広く取りたい、その為には少々観客席を潰しても仕方ない。その考えか加藤ちかの美術が舞台全体に自己主張している。下手 (しもて)には大砲付の戦車、真ん中には軍用トラックが鎮座ましましている。いったい役者にどこで演技しろというのだろうか。
これがミュージカルやオペラ劇場なら大きな舞台美術が出たり入ったりするので役者たちは自由に舞台を飛び跳ねることができる。
ところが加藤ちかの美術は微動だにしない。もちろん少しは回転したりするが、その位置をずらすことはない。ピーター・ブルックならNOと言うだろう。作品を一つの方向に意味づけする事を嫌うからだ。だが、こんな例もある。『オイディプス REX』( 美術ジョージ・シーピン、斉藤記念オーケストラ ) 『毛皮のマリー』( 美術ジャン・ハース、パルコ劇場 ) などでは美術により重厚感を持たせる試みがおこなわれ、流動性を食い止める杭の役割を持たせることに成功していた。森井は船戸作品が持つ重さをこの美術で引き受けたと言える。観客の想像力に制限を加えたのだ。演出に自信がないとこういうことはできない。本来のテーマである現代社会が孕む不条理の問題をリアリズムの表現では描ききれない。苦し紛れにヒューマンドラマを入れるとメロドラマになってしまう。アメリカ映画はしばしばその線で (cliché) で終わっているのは明らかだ。
森井は大胆にもそういったリスクを承知で引き受けた。
トルコからイランまでの地域は昔から複雑な問題を抱えている。イランはペルシャ時代からギリシャと何度も戦争を起こし、国境線がその度に移動した。その度にそこに住む少数民族はどちらの勢力からも迫害されてきた。それに古代インドの交易も盛んでシルクロードは時代によってロシア側へ緯度を上げたり、ペルシャ・アフガニスタン側へ下げたりした。そして、昔からトルコにもたくさんの人が住んでいた。トルコとは、ノーマッド ( 移動民族 ) を意味するという。この地域にはあらゆる所で交易したり、人々の交流があった。そんなこともあってかイラン北部地方にはサカイエンという祭りがおこなわれていた。これが演劇の始まり、ディオニソス祭りの起源とされた。ちなみにイラン革命前のパーレビ王の時代にシラーズにあるペルセポリス宮殿跡地で国際演劇祭が催され、寺山修司が率いる天井桟敷が参加し、その奇抜な演出に観客は大いに魅了されたと言われる。少々本筋から話題がそれたがイランは昔から演劇が盛んな国なのである。物語はイラン・イラク戦争の最中でのクルド人の独立を求めた武力蜂起を巡って展開する人間模様を、主にイラン内において描いている。クルド人はトルコ、イラク、イラン三国にまたがって約六百万人が生活をしているとされる。そのルーツは紀元前二千年に及ぶ。クルド人の生業は主に遊牧と農業である。その為クルド人社会は部族的結束が強固で閉鎖的である。それが、しばしば起る民族運動でも障害になってきた。イラン革命後、北部の山岳地帯に住むクルド人国家は崩壊させられた。その後、この地ではイラン人とクルド人の対立が続いた。作品は、この対立の中の人間模様を描いている。クルド人ゲリラの中には、イラク・クルドとイラン・クルドに分かれて路線対立があり、クルド革命の名の元に結束とはいかない事情があった。面白いのは、その中に日本人の武器商人が入り込み、武器をクルド人たちに供給している。ハジ (篠原功) というこの武器商人の視線が、この人たちの行く末を見守る形になっていて、単なる武力中心の革命劇に終らせない『悲劇の誕生』を充分に期待させる。
一方、イラン側の革命防衛隊にも内部対立があって革命がどうなってゆくのか分からない。防衛隊小隊主任のサミル・セイフ (いしだ壱成) はそんな中で悩みつつも革命の本来的な目的を突き進もうとする。彼は軍の内部の腐敗を正そうとする。最後にはクルド・ゲリラと革命防衛隊との武力衝突にまで発展していくが、このドラマは結末がどうなるかを示さない。演出の森井は、あくまでもこの地域の不条理な状況をそのまま提示する。何千年と続く流動的な状況の中で生きる人々のけなげさや強さを私たちに示す。彼はむしろ平和の中で少々ボケている私たち日本人に『さあ、どうする』と問いかけている。折りしも私たちは東北大震災と原発事故を経験した。森井の提示したこの問いが今までとは違ったリアリティを持って迫ってくるのを感じられる。それは偶然なのか、それともそういうウェーブの中に日本があると言うことなのかは分からない。でも遠い国の話が妙にリアリティを持って感じられるのは、それなりの理由があってのことだろう。まして戦闘シーンが多い作品だけに個々の役者がキャラクターを発揮する機会が少なくなりがちであるにもかかわらず、この作品ではそれぞれの役者が自分のキャラクターを発揮しようと努力した形跡がある。中でも、サミル・セイフ役のいしだ壱成は久しぶりに全身を役に投入させるパワーを見せてくれた。これからの彼の活動に注視したい。




以上です。文末の僕に触れている箇所は、自分自身全く手応えというか自分のいたら無さを痛感した役であったので、果たしてそうだったかな、だったとしたらうれしいな、という処ですが、ある意味ではこれだけ演劇にうるさい人間が判り易い言葉で作品を理解してくれて、そしてまた僕自身がこれから様々な演目で関わっていくなかでのある意味のデビュー作の感想を纏めてくれて、尚且つその演劇観が互いに昔も今も全く変わらずにブレてすらいなかったという事を痛いほど再認識させてくれた論文でもありました。

そして大袈裟ですが、これが一つの切っ掛けとなり、改めて自分自身の役者としての道筋の指標となり、また本作『カルタゴの人々』へ臨む上でも、様式的な部分、あるいは表現者としての指針の一部を示してくれました。
だから、なおさらに日々自分を見つめて一段一段、一歩一歩、更なる高みを目指して毎日努力を重ねて作品のクオリティや芝居の精度も更に高めていかねばならないと感じています。

もう本番も差し迫っているなか、一人でも多くの方に本作を観劇して頂きたく、こうして久し振りのブログを書かせて頂きました。

最後にピープルシアターが昨年度に宣言した『テアトル・ノワール宣言』について、もう少しだけ詳しく触れてこの記事を締めたいと思います。

元々、テアトル・ノワールとはピープルシアター主宰である前出の森井睦氏が打ち出した造語、あるいは概念であると『砂のクロニクル』の稽古に入る前に本人から聞かされました。

その言葉の源となっているのは、フィルム・ノワールという言葉でカテゴライズされた1940年代前期から1950年代後期にかけて主にアメリカで製作された、退廃的な意味合いを持つ犯罪映画の作品群を指した表現であるといいます。

フィルム・ノワールはフランス語で、日本語に直訳すると『暗い映画』となります。

勿論、直訳するとそうなるだけで意味合いとしては『暗い』の裏には『黒い』だとか『犯罪的』だとか『虚無的』といった意味も含まれてくるそうで、総称すると虚無的で退廃的な意味合いを含んだ犯罪映画、というのがフィルム・ノワール作品群の特徴である様です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/フィルムノワール

この潮流の影響を汲んだ、あるいは影響をうけたとされる映画のなかには自分自身が大好きな映画も幾つか含まれていて、例えば『ロリータ』1962年製作、スタンリー・キューブリック監督作であるとか『ブレードランナー』1982年製作、リドリー・スコット監督作などがあり、なんとなくですが、この概念を最初からとても身近に感じる事が出来ました。僕自身とても好きな世界観だったというのもありました。

自分ごとで言えば出演させていただいた映画『奇妙なサーカス』2005年製作、園子温監督作もこの流れを大いに汲んでいたのではないか、とも思います。勿論、園子温監督は『そんなことねぇよ!俺は俺だ!』と言いそうですが、あの映画こそも犯罪的な映画そのものであり、その暗黒度合いは底知れぬものがあると個人的には認識しています。

話しが逸れましたが、この『フィルム・ノワール』を映画のフィルムの中ではなく劇場(フランス語ではテアトルとなります)で、生で観客に見せる芝居で表現しよう、というのがこの『テアトル・ノワール』という考え方なのだと森井氏は熱く語ってくれました。

今年は僕自身も本作『カルタゴの人々』のほかに『新宿・夏の渦』7/25~全10ステージ、『琉歌・アンティゴネー』10/10~全10ステージが控えています。それぞれに違ったカタチで森井氏の目指す『虚無的で退廃的な犯罪演劇』を演じていく訳ですが、その第二作めの挑戦となる『カルタゴの人々 ・イメルダ・フォーリーに捧ぐ』の上演に向け感覚を四六時中、常に研ぎ澄ませながら、本番までの残り僅かな時間を有意義に、また厳しく過ごして行こうと思います。

東日本大震災から、もうすぐ一年が経過しようとしています。
震災でお亡くなりになられた方々の魂の安寧を祈るとともに、
震災や原発事故で心に大きな傷を負われた方々の想いを絶対に風化させない為に、一人の役者としてこういった作品の数々を大切に一生創り続けて行こうと決心しております。

すべての尊い魂に、限りない愛を込めて。


壱成