感じることと考えること。 | いしだ壱成オフィシャルブログ『Arrivals』powered by アメブロ

感じることと考えること。

一瞬春か?と思うようなうららかな陽射しの東京。

かと思えば突然に雪が降り出したりとまだまだ冬なのだなと改めて感じる今日この頃。

皆さんは健やかにお過ごしだろうか、冴え渡る冬の空気の様に気持ち良く毎日を過ごせる様にまずは心からのお祈りを。

僕は四月に本番を控えた劇団山田ジャパンの稽古をやったり、楽曲制作をしたり、稽古期間中だからたまの週末はツアーに出たりと、まあごく相変わらずな日々を過ごしていて、可もなく不可もなく、な日々だ。

自分だけかとも思うが、やはり去年から時間の経過というか、時間(とき)が流れるのがすこぶる速く感じる。

それだけ、充実して過ごさせてもらってるのだ、と思う様にしてはいるが、やはり速いものは速い。

かといって、なにか残せているのか?
というとさほど自信は無い。自信がないから、もっと残そうとするのかも。

それはいつも自問自答している事だが、とにかくもっと上の段階を目指していきたいと感じるし、具体的に、目指す。

その自信があり過ぎてもなんだなとは思うが、なさ過ぎてもなんだ。

だから、うまく真ん中を歩けたらと、思う。

とっておきのコツがある。自分なりのコツ。

とにかくエゴは、いらない。

と、昨日自分の所属する事務所の社長と芝居の話しをしていて、そんな所で話しが落ち着いた。社長はなんと言うか、いわゆる超がつくほどの演劇馬鹿だ。

馬鹿などと言っては聞こえがよろしくないが、とにかく演劇の全てを知り尽くしている。それ程に演劇が好きで好きで仕方がないらしい。

だから、普段から何かと頼りにさせてもらっているのだが、役作り、稽古の感覚、役の出来、不出来、その日の芝居に手応えあり、なし、など。

気になる所はだいたい素直に聞くことにしている。

駄目なら駄目とはっきり言ってくれるし、良ければなにも言わない。

そんな会話のなかでぴたりと答えが一致した事があった。

結論の一つ。

とにかくエゴが邪魔をする。

ということだった。

例えば、舞台に立ったとしよう。

お客様とて、最近は半端なく目も耳も五感も肥えていらっしゃる。

仮にその舞台上で『俺はかっこいい』などと思いながら芝居をしていたら、すぐに客席に伝わる。

そういう役や作品ならば全く構わないのだろうが、そうでなければ芝居全体の邪魔になりかねない。

いかにして、自分のエゴを殺して挑むかがその役の成功か否かにつながるのではないかという話しをしていた。

最近は舞台に立つ若い役者さんはだいたいが無意識なのか慣れなのか、それを自然と心得ていて、観ていると非常に観やすく感じる。

勿論、外見はとびきりの美男美女だったりするのだが。

とにかく、あまりそういったものは感じられないので特に気になる所は無い。

さて、そんな自分はどうだろう。

恥ずかしい話しだが、舞台上に立っている限りは、正直全く余裕すらないのが実情だ。

役としての余裕はいくらかはある。なければ、きっとまともな芝居にならない。

役になりきるとよくいうが、多分その状態がなりきっているのだろう。
まったく持って確信はないが。

ともかく自分としての余裕は、全く無い。

そこにもし、余裕が生まれたら、うまくコントロールしないとそれはそれで面倒なことになる。

慢心、というものだろうか。

ミスが起こりやすくなったり、間が延びたり。

よく言う『タメすぎ』というやつかもしれない。

あくまで仮にだが、俺はいい芝居をしているぞ、どうだ俺の芝居泣けるだろう、この台詞が俺の決め台詞だ、みたいなことを本番中に考えていると恐ろしい程の『タメ』が出来ていたりする。

結果、客席は『はいはい』となり、芝居も間延びしてしまって本来のスピード感が損なわれる。

これは、あまり良くない例だ。

去年あたりから意識しているのは、自分の気持ちの約コンマ0.8秒ほど間を縮めることだった。

人にもよるがその方が自然なスピードで客席に伝わりやすいらしい。

本来の感情通りのスピードでやると、そこだ!というポイントに対してテンポが遅れるのだという。

演出家さんによっては、全く間を与えてくれない方もいる。

前の役者の台詞にとにかく矢継ぎ早に台詞を重ねて行くのだ。

こうなると演じている方は感情も何もなくなるが、なるほど客席から観てみるとこちらの方が自然だったり妙にコミカルに観えたりするのだから不思議なものだ。

勿論、きちんとしたテクニックも必要になるのだが。

走らない様に見せなければならない。
走る、とは演出のスピードを重視するあまり、何を言っているのか客席が聞きとれなくなったり、役者本人が追いつけずに本当に台詞だけをものすごい勢いで言っているだけになってしまう状態だ。自分も正直、経験がある。

その瞬間を感じれなくなった証拠だ。

得てして、やっている方と観ている方とではことごとく違う。

とにかく、観やすいのを優先するのか、自分のエゴを優先するのかで変わるのもまたお芝居の面白い所であろう。

さて、本来書きたかったことに話しを戻そう。

いまとても悩んでいる。というとなんだか大袈裟だし、心優しいファンの方々は心配してしまうから、ひとまずいま一個、軽い壁にぶち当たっている、としておこう。稽古中はいつものことだ。

頭で考えてしまうのだ。

勿論、考えないと演技出来ないから考えるべき所では考えるし、考えることからスタートはする。

考えてから、芝居を始める。
そして感じる。感じて、進める。
役者、というかこれはもう本来の人間同士の意識の交換こだ。

そこの交換この間に、何かが生まれて、それが観ている人を笑わせたり、泣かせたり、いらいらさせたり、頷かせたりするのだろう。

勿論そこにエゴはなくて、無心で。

これがなんとなくだが、いまの理想だ。

だが、考えてしまう。

今回の山田ジャパンという演劇集団が、独自の笑いを追求しまくる集団だからだろうが、とにかく自然に自然にやらないと稽古場で笑いは起こらない。

自然にやるとなると、やはり無心でいくのが一番だ。少なくとも今の所は。

まだ今だから、若干時間的な余裕はあるが僕は稽古の早いうちからこういう自然な『感覚』を身につけておきたい派だ。

だから、稽古中はそればかり意識しているのだが、やはり考えて動いたり台詞を話したりしてしまう。

まだ身体と五感が彼らの『普通』に溶け込めていないのだろう。

当然本番までには間に合わせるが、今はまだ、考えて、笑いをとっている感じがして、違和感がありまくりなのだ。

短いシーンの返しのなかにもいらない間があるのも自覚していて、なんとかならないものかと映画を観たり本を読んだり、ほかの芝居を観に行ったり。音楽をがんがんに鳴らして車を走らせてみたり。

でもやはり、やってみてなんぼだ。

それには、やっぱりまだエゴが邪魔をする。今度はうまくやりたい、というエゴだ。

エゴ。

と、そこであることに今更ながら気がついた。というか、再度確認した。

これはすべてのことに共通点がある。

音楽を奏でるとき、DJをするとき、道端を歩いているとき、誰かと話しているとき、すべてのとき。

そのときに感じるものを出来るだけワイドに保っておきたい。

そしてそれは、もしかしたら地球上のすべてのことにも関係してるのかもしれないと思う。

勿論、細かくはニュアンスが違う。

だが、エゴがクリエイティブなことや、人間が次のステージに上がるチャンスを邪魔しているのかもしれない。

戦争や権力やお金。

いきなり話が大きくなってしまうが、これはすべて極端で強大なエゴそのものから生まれてくるものであるとも思う。

そこまでして、何のメリットがあるというのか。

一部の人たちのふところはそれこそ極端に温まるかもしれない。

戦争だって原発だって国単位のビジネスなのだ。

でも、でも、だ。

その先は言うまでもない。

もう、シフトしても良いのではないか。

まずはエネルギーをシフト、権力争いを終えて、愛と調和の均整のとれた惑星へシフト。精神論ぽくなってしまうが、実に切実で身近なことだと思う。

それには、先ず自分自身がちゃんと感じるべきものを感じて、芝居をしたり音楽を奏でたり、その先に初めてようやく光が見えてくる気がしてならない。

だけど、この拙いブログやなうや、Twitterを通して、段々とその輪(和)が広がりつつあることにはとても有難く感じている。光は既に当たり始めている様な感覚もする。

これもファンの方が言って下さったことだ。

残せている。

一人でも多くの人たちにと、大事なメッセージを残せたから、そう言って下さる方がたが居る。

それだけでもまだ自分が存在していて良かったと思える。

自分自身を愛し、周りを愛し、その和が連鎖反応を起こすことが出来れば、地球も喜んでくれるかもしれない。

まずは頭で難しく考えず、感じることからだ。

悲観せず、ワクワクしながら取り組むことだ。

そうしたら、感じることも自ずと変わって来るだろう。

そうしたら、もしかしたら、本番で自然な笑いを提供出来るかも。

『優しく大きなココロで』

イマココ、ヒアナウ、を大事に。

わが師、ブルースリーの言葉の通りだと改めて感じた。

考えず、感じなさい。

と。


愛溢れる日々を。
皆が幸せに在れます様に。


壱成