悔しさを嬉しさに。
生きていると、何かしらで悔しい思いをすることがある。
当たり前なことで本当に恐縮だが、それを感じた瞬間、それをどう思い、どう捉えるかでその後が大きく変わって来ると思う。
僕は恥ずかしながら、そんな思いをする事はしょっちゅうだ。
たとえば芝居をうまく出来なかった、音楽を思う様に奏でられなかった、大事な人と上手に話が出来なかった、など挙げていけばそれこそいくらでも出てくるのだから全く持って世話が焼ける。
今日は当たり前に感じていた、この悔しい、を考えてみたいと思い、格好などつけず、恥も外聞も投げ捨てて有りのままに書いてみようと思う。
そもそも人が発するパワーというか、限りなく発展出来る力というのは悔しい、という思いから始まっていることも多いと感じる。
読んで下さってる方のなかには、そんな経験がお有りだった方も多いだろう。
それを乗り越えたこととして、過去のものに出来ている先達の方も少なからず多いと思う。
悔しかったから、練習したり、何かに向けて準備をしたり、必死に努力したりしてその行きたかったポイントに到達するのだろう。
最近、人と話していて、よく人間力、という言葉を耳にする。
言葉それそのものがどんな意味なのか、学の無い僕は正確に理解し切れていないが、その人の持っている人間としての力、アイデンティティ、強さ、弱さ、ライフスタイル、美しい部分、そうでない部分、過去、未来への展望、そして今、その他諸々の色んな要素をすべて含めて人間力、と呼ぶのではないか。
それもすべて含めて、そういった力や感情を持つ人間という種族は美しい、と感じる。
良くも悪くもすべてを可能にする力を人は誰もがそれこそ平等に持って生まれて来る。
それをどう使うかはその人次第なのだと思うが、それこそが人間力のひとつなのでもあるのではないか。
あくまで自分は勉強中なので、詳しいことは未だ書き控えるが、ひとえに脳の使い方、でもあるという。
クリエイト、何かを創造する力、もとい、それを作り出す頭脳。
ここを鍛えることがその人間力とやらを格段にアップさせる秘訣だとも聞いた。
そう考えれば、みんな脳を使って人生そのものをクリエイトしている訳で、今、この瞬間に何を感じて何を思ったかで、その先の未来というか、その人の時間軸は多いに変わってくるのだろう。
みんな、人生という芸術作品を創造しているのだ、と気づかされた。
人は皆、クリエイターなのだ、と。
勿論、誰ひとりとして、例外なく。
すこし話が逸れたが、悔しさのなかから生まれてくる力。
これを負と捉えてみよう。
きっと生まれでてくる感情は嫉妬や対抗心、そして自分への自信の無さと未来への不安という有難くない連鎖反応だろう。
では、これを正と捉えてみる。
その瞬間に、やることは山ほどあるのだ、と気づかされる。
決して落ち込んでいる場合では無いのだ、と。
例えば芝居にしてみれば、いきなりべらぼうに演技がうまくなる訳ではないから、ではどうすれば良いだろう?と考える。
まずは他の色んな芸術に触れてみる。
今まで知らなかった映画や演劇や音楽やアートに溶け込んでみて、ショックを受けてみる。
或いは言い方が古臭くて恐縮だが、見聞を広めに旅に出てみる。
それでも、到達は出来ないかも知れないがきっと何かは確実に変わるし、何もしないよりはまだましだろうと思う。
そのたったすこしの何かが芝居に反映されて、人を感動させられるかも知れない。
これだけひとつとっても、こんなにやることが山ほど浮かび上がって出てくるのだ。
では感情、というものに話を移そう。
嫉妬。
これを瞬時に正に変えられる人は凄いと思う。
言ってみれば、スーパーマンかシャーマンだ。
それだけこの嫉妬という感情というのは面倒だし、進むべき物事をストップさせるある意味、天才的で破壊的とも言える力を持った感情だ。
対立だって生んでしまいかねない。
ほんのちょっとの妬みから生まれる対立。
些細で一方的だったものが、いつしか
相手の怒りや負の感情を呼んでしまい、いがみ合いやらそんな厄介なものに発展してしまう。
ジョン・レノンやボブ・マーレーたちが己の命を賭けてまで説いたメッセージが有りながらも、未だ無くならない戦争や大なり小なりの争いごとが良い例だとも思う。
一昨日だったろうか、Twitterのタイムライン上でまさにそれに共感出来る一言を目にした。
アウン・サン・スーチーさんのお言葉だった。
「対立より対話を」
というものだった。
まさに負のものを正に、一言のみで変えられるパワーを持った言葉だった。
対話、話し合いで解決出来ること。
どんな人たちだって、きっと好き好んで争っているわけでは無いだろう。
好き好んで傷つけあっている訳ではないだろう。
それぞれの思い、それぞれの名誉、それぞれの家族、それぞれの国や地域の為に戦わざるを得ないから兵隊さんは戦地へ赴くのであって、それが大いなる無駄な対立を生んでいる。
でも、その兵隊さんだってお父さんが居て、お母さんがいる人間なのだ。
話せば、分かる。
分かってくれる。
分かりあえる。
みんな誰かを愛しているから。
本能で愛を知っているから。
愛に生きているから。
ただ、ベクトルが違うだけだから。
たまたま言語や価値観や環境が違っただけだから。
たとえ分からなくても、時間がかかったとしても、互いに歩み寄ることは十分に出来る。
嫉妬や対抗心がその邪魔をしなければ、調和への道は、見事にそこに在る。
話が随分と大きくなってしまったが、同じことが日常でもおおいに言えるのではないかと感じる。
妬みより賞賛を。
対立より共存を。
直感でそう感じれれば、しめたものだ。
きっと、そう在れればもっともっと楽しくてわくわくする毎日が過ごせるのかも知れない。
みんな仲良く、幸せに、喜びあって。
それだけでも、だいぶ変化が現れて来るのではないか。
悔しい、という感情を巧く利用して、もっとスキルアップや何か自分にとってプラスになることに転換させられるのではないか。
それが出来ている人は、本当に素晴らしいと思う。
なりたい自分に成る。
それはとてもハードな道のりかも知れない、でもやること、やるべきことのいっぱいある人生は幸せだと思う。
そう考えれば「苦労は買ってでもしろ」という僕よりも数段上のジェネレーションの方々の言う意味が、心底よく分かって来る。
毎日、嬉しくて楽しくて仕方がないくらいなら話は別だが、生きていればそればかりの毎日では無いと思う。
ちょっとした発想の転換、これが出来れば、先の人間力というのもすこしばかりはアップするのではないか。
本当に「当たり前」な話で申し訳なかったが、当たり前だったからこそ、もう一度、思い出してみるべきこともあるのではないかと、乱文ながら綴ってみた。
ここまで読んでくれてありがとう。
そしてもう一度。
「対立より対話を」
愛を込めて、揺れる大陸より。
壱成