このところ周りで《期待》とか《怒り》についての話題が多くて。こういう時は自分への学びでもあるため、ちょっと考えてみました。(長編です!)


怒りって、2種類あると思うんです。


・愛がある怒り 

・愛がなくて叫ぶ怒り 


前者の根底には《望み》、後者には《期待》があるように感じます。 

望みと期待とどう違うのかといえば、そこはよくわかんなくて…なんとなくです。 


でもこの2つの怒りの違いについては、割とすぐわかるというか… 肌で感じるというのかなぁ🤔 


前者は、大きく言えば「戦争反対!」のように、良い状況になることを望んで、苦しむ人達のために声をあげる感じ。

後者は、「こうしてもらえるだろう」と期待していたにも関わらずそれが叶わず、悲しい、なぜ?!という嘆き、大切にしてもらえなかったことへの叫びみたいな。


前者については一旦置いておいて、後者の場合を少し掘り下げて考えてみると。


悲しみが怒りに変わるのって、やっぱり踏みにじられた感というか…自分(または自分の大切にしているもの)が、期待した以上の愛を受けられなかった時に火がつくように思う。

愛を受けるはずだったのに、思うような形では満たされなかった…という理不尽さというか。


でもこの時、《期待していた形》にこだわりすぎて、そこにある《満たすためのかけら》を見逃していることも多いんじゃないかなと思うんです。

(最近怒ってる人が多いのも、この《形》へのこだわりの強さ、感謝の不足、柔軟性の欠如とか思考の応用力とかも関係あるのかなと思ったり)



例えば
ハート形のクッキーを作るために、♡のクッキー型を準備したとします。

でも用意されたのは☆型の分量だったため、生地が不足してハート形のクッキーが作れなかった(…伝わってるかな😰?) 


生地が足りない😡 

ハートのクッキーができると思ってたのに😡 

みたいな。 


残念な気持ちは理解できる。

でも、これって工夫次第だったりもしますよね? 


生地をもう少し薄く広げてみれば足りるかもしれないし、そのままを受け入れて星形のまま焼いてみたら意外と気に入るかもしれないし、生地があっただけでも良かったーとか。 


今、そこにあるもので心を満たせるように、工夫や考え方を変えてみたり、「どんな形でもいい、きっと大丈夫😊」と思えたなら、想像していたのと形は違っても幸せを感じられる。


逆に、ハートにこだわって、不足に嘆いて怒って文句を言い続けていても、クッキーは焼けないままなんです。 



要は、「〜じゃなくても自分なら幸せを見つけられる」という《自分を信じる気持ち》がキーポイントなのかな、と。



もう一つ例えるなら

「窓際で夜景を見ながら食事を楽しむ〜🍴」と期待して行ったレストランで、案内されたのが窓から離れた席だった。 

悔しくて悲しくて、窓際の人達にずっと嫉妬して、レストランに文句言って…せっかくのお料理も大切な時間も楽しめず、挙げ句「こんなの差別だ!最悪だ!」と怒る。 


ここでも気持ちを切り替えて、今ある幸せなことに目を向けてみれば、「こんな時間を過ごせて良かった」とか、「美味しい食事ができて幸せだ」とか、結構見つかるものです。

それを楽しめるかどうかは、状況ではなく気持ち次第だから。 



少し話がズレますが、窓際の席の人が幸せかどうかなんてことも、実際はわからないですよね。


案内はされたけど夜景に興味ないかもしれない、エアコンがあたって寒かったかもしれない、夜景を楽しむつもりが会話に夢中で外なんて見なかったかもしれない。


人がどう感じてるかなんて全くわからない。


この光景をパッと第三者が見て、「窓から離れたあんな席で可哀想」と感じたとしても、これも同じく本当のことは当人しかわからない。


夜景は見えなくても食事や雰囲気を楽しんで幸せだったのかもしれない、端が落ち着くから敢えてだったかもしれない、カップルに良席を譲って心が満たされていたかもしれなくて。 


外から見ただけではわからないことばかり。


つまり
その状況が幸せか不満かは、第三者ではなく、レストランで食事をしてる人達がそれぞれ感じること。他人がどう思おうと、その人が幸せならそれでいいのです。 

それを理解した上でも、まだ不満が残るのだとしたら、それは食事してる人達の問題ではなく《見てる自分の不満》なのです。 

でもその《すり替え》に気づくと、実は少しラクになれると思うんです。なぜなら自分のことなら自分で何とかすることができるから。 



私はこんな風に考えますが、もちろん全く違う人もいるでしょう。 

自分の考え方が全てではなくて、相手にも相手の考え方があります。 

それって、その人自身の証みたいなものですもんね😊 


価値観や背景や経験や、様々な感情、正義の形…自分とは全部違う過程で作られたその人の世界。 

たとえ相容れない世界であったとしても、相手も自分と同じく《大切にしている世界》を持つ一人の人間なんだなーという尊重というか…相手が持つ世界のことも大切に思う。 

そうすることで自分の世界にある、一部の頑なさ?みたいなところがふんわり柔らかくなって、自分の世界が広がる…と考えると肩の力が抜けるのです(私は)。


それが本当の意味で自分の世界を大切にすることだと思うんです。(LOVE YOURSELF💜)

相手のことも自分のことも削らない。


期待から外れた不足があっても大丈夫、と自分を信じること。 

不足を満足に変えることで常に心を満たしておくのも、やたらに傷つかないための秘訣だと思います。(お肌も心も潤い大事〜😭)


不快を感じたら、距離を取ったり、ガード強化してみる。

選択をする自由と、選択してる責任は自分にあるって思えばよいわけです。

状況や他人を変えるのではなく、自分の行動や気持ちを変えて、自分の世界を大きく自由に広げてみる。 


みんなそれぞれの辛い経験や悲しみを経験してきているだろうし、それを何とか修復したり、抱えたまま今も頑張って生きてきて、シミや傷やキラキラやらで色とりどりに作ってきた自分だけの世界を、その人なりに守りたいのです。

そう思うとちょっと愛おしくないですか🥰? 


考えてみれば、違うことだらけなのに同じ人達に勇気をもらったり、同じ曲や映像から得た感情を共有したり、ささいなことにときめいたり、喜んだり…そんな私達はめちゃくちゃ可愛い生き物です😋(断言)。 



期待を完全に手放すことは難しいけど、「期待していたものじゃなくてもどこかに満足を見つける」ことは、少しずつやってみると意外とできるもの🍀

(よつ葉が見つからない人に、よつ葉を作ってプレゼントする。本物じゃないと気づいた時に一瞬「えー?!」となっても、すぐに相手の思いやりに気づいて笑いあえる私達の大事な人達のように)



無理に《期待》を引き剥がそうとするのではなく、その「今あるもので心を満たす」習慣を繰り返したり、「自分と相手は全く違う」ということを本当に理解できた時に、いつの間にか《期待》も距離をとってくれるんじゃないかな。

《期待》だって、きっとその人にとって必要なものだったからこれまでそばにいて力になってくれて、度々顔をだしてくれていたわけで、その人が成長したらお役目も終わるのだと思ったりします😊



心も外から見えないし(これって凄いことだといまだに不思議)、わかり合えないはずなのに、わかり合えた時に嬉しかったり、わかり合おうとすることが美しいですよね✨


怒るってことも感情を感じられる幸せなこと。

バンタンはいつも「アミは幸せでいて」と願ってくれています💜

何度も言葉にして伝えてくれた、愛する人達のその願いは、今すぐにでも叶えてあげられるのです🥰



こんなに長い上に、結局話がとっ散らかってしまいましたが、最後まで読んでくださってすごく嬉しいです😭

ありがとうございます💜