「うまく言えない」と「わかっていない」は違う

たとえば文学作品を読むとき。「ごんきつね」(1932年 新美南吉作)の例で見ましょうか。倒れたごんを見た兵十はどんな気持ちだったか、と聞かない先生はいないですよ。そういうときに、じょうずに、うまいことばを使って兵十の気持を表現できないといけないように思われているでしょう。それが文学鑑賞だということになっている。

 

でも、「うまく言えない」ということと「わかっていない」こととは違う。・・大人になって文学を読んで心を動かされることがあっても、その感動をじょうずに表現できるとは限らないでしょう。表現できないなら、感じていないのと同じだ、なんていうことはありませんよ。気持がよくわかって、思わずぼろぼろ涙が出るような、そういうふうに読めたら、それでいいはずです。

 

そうはっきり教師の態度が決まったら、もう「兵十の気持ちは」なんて聞かないんです。たとえば、死んだごんに気づいた兵十が、思わず「ごん」って呼びかけるんですが、こんなふうに呼んだのかなっていうことを工夫しながら、子どもがそれぞれに「ごん」って言ってみる。味わいながら、一生懸命やって、先生もやってみる。じょうずもへたもないし、誰がいいということは言わない。だけど、そうするうちに文学鑑賞というのはこういうことなんだって、胸に届くんです。それで十分でしょう。

 

「教えることの復権」 大村はま / 苅谷剛彦 夏子 ちくま新書

 

 「うまく言えない」と「わかっていない」は違う。はま語録の神髄である。

 私がずっと胸に抱えている思いをズバリ表現してくれる、卓越した生徒理解の力に脱帽。この国語力の問題は特別指導の場面で繰り返し感じてきたことである。

 

 我々が求めるような反省の言葉を言えばよしとし、それが言えないともっと反省しろと言う。自分の思いをうまく表現できない生徒の反省文や反省の言葉から何を読み取るのか。本当に反省していないのか、我々教員の生徒理解の力量が問われている。

 

 発達障害があるかもしれない生徒に何を求めているのか、ここでも平等性と個別性の問題が頭をもたげるが、甘やかしでもなく、画一的でもない、生徒一人一人に応じた指導があることをこの文章は教えてくれている。