ブログのコメントに、教員の「間抜け」とか「気抜け」とかのご意見を頂いた。

たしかに生徒とトラブルになるのは「間」の悪い教員に多い。「間」が悪いってどういうことなんだろう。

 

「間」と「勢い」

「間」が悪い人というのは、話をしている途中で息を吸っちゃう。息継ぎが下手なの。自分の頭の中で、「この話のどこで息継ぎをするか」を考えていない。・・・

 漫才の場合だと、自分の話すネタというのはあらかじめ決まっている。だから、どこで息継ぎをすればいいかというのは、ちゃんと考える。オチを言う直前に息をフーッとやったら落ちないし、それじゃ客も笑わない。だから、落ちまで一気にしゃべる。

 それに漫才は、しゃべっているように見えるけど、舞台に上がっている人間からすると、怒鳴っているぐらいの感覚。「どうも」じゃなくて「どうーもおー」って感じ。実際は「何だお前!」って、ものすごい勢いで怒鳴っている。

 でも、それぐらいで客にはちょうどいいんだよ。マイクの前で、普通の会話の調子でやったら、お客さんには何を言ってるかわからない。「あのさー」では全然ダメで、「あのおーさあー」ぐらいでやっと届く。そうすると、息をジャンジャンジャンジャン吐くことになるから、余計に息を吸うタイミングを考えておかなければいけない。

「間抜けの構造」 ビートたけし 新潮新書

 

 授業は授業者のしゃべりのリズムとテンションで変わる。それが私の持論。リズムとテンションを「間」と「勢い」と置き変えてもいい。知らず知らずに引き込まれる話し方もあれば、聞いていると眠くなる話し方もある。漫才なら、怒鳴っているぐらいの感覚。それぐらいで客にはちょうどいい。授業もすごい勢いで伝えようとしないと伝わらないのかもしれない。声の勢いというより、そういう気持ちの波動が生徒に伝わるのかもしれない。

 教師の駆け出しの頃「オレの保健の授業は面白くて寝ているものは一人もいない」と言ったら、生徒から「それは違います。声がうるさくて寝られないだけです」と言われた。それもひとつの波動だろう。先生のしゃべりだけでなく、板書のスピードやチョークの音も気になる。心地よいスピードとリズミカルに刻まれる手書きの文字は、液晶画面の整然とした文字を見なれた生徒には異次元の刺激になりうる。

 先生のキャラも含めて、声の質、しゃべりの「間」や「勢い」、板書の仕方など、それを総合したものが授業のパフォーマンス。もちろん漫才ならネタ、授業なら授業内容が重要なことは言うまでもない。しかし、根幹の部分で「何としてもこの子らに伝えたい」そういう熱い思いを持ち続けなければ、学びから逃避しがちな生徒に言葉は届かない。