間のよい人と悪い人がいる。人との距離感であったり、会話のテンポであったり、会った後の余韻であたり、それが合う人と合わない人がいる。それが相性だったり、個性だったりするのだが、相手に会わせて間を意図的にコントロールできるのもひとつの能力かもしれないな。

 

間を取る

 

おいらのときは、漫才のスピードをそれまでの倍にした。B&Bとツービートでジャンジャンジャンジャン速くした。それまでに漫才をしていた人たちの倍は速くしゃべって、そこに何倍もギャグを詰め込んだ。・・・・

その代わり、アナログ的なおもしろさがなくなってきているという面はある。速ければ速いほどおもしろいかと言えば、そこは微妙で、速さとおもしろさは正比例しているわけじゃない。速いだけでリズムが単調、なんてこともよくあるから。ちょっとデジタル的になったというか、テンポが全部同じに聞こえちゃう時がある。・・・

やっぱり漫才は「間」なんだ。・・・

 そんな傾向のなかで異色なのが、スリムクラブ。この前見て笑っちゃったけど、「間」をたっぷりとる。「間」を詰めないで、その「行間」で笑いをとろうとするこのスタイルが、今の客には新鮮に映るんだろう。これだけ「速い漫才」全盛の時代にあって、あれだけ「間」を取って漫才をするには勇気がいる。でも、あいつらが遅いからといって、「間」が悪いかといったらそうじゃない。テンポはゆっくりだけど、音楽の裏打ちのような独特の心地よさがある。

 真栄田  あれ? 無いなあ・・・・・。あれ・・・・どこかな?

 内間   あの・・・・・・・何を探しているんですか?

 真栄田  ・・・・・・・ドラゴンボール!

 内間   ・・・・無いと思いますよ!

 真栄田  ・・・えっ?

 内間   あの・・・ドラゴンボールはありません。・・・あれは、

      作り話ですよ。

 

「間抜けの構造」 ビートたけし 新潮新書

 いかに授業の「間」を取るか、それが「学び直し」の授業のキモのように感じる。中学校までの授業のスピードについていけない生徒が集まっている学校では、高校のスピード(学習指導要領の内容と進度)で授業をしたらついていけないのが当たり前。それこそ「間抜け」な授業である。スリムクラブのように「間」を詰めないで、ゆったりゆっくり「行間」で授業を進める。その勇気が求められている。

 今の漫才のように、テンポ良くデジタルに高校の定量的な知識を詰め込む教え方を捨てて、ゆっくりとしたテンポで、生徒がこれまで感じたことがない心地よさや安心感を与えるような授業を目指す。それが学び直しの授業の基本的なあり方だ。無理のない指導内容と進度の授業、それが生徒に学ぶ心地よさや安心感を与える。それが、わかる、おもしろい、楽しい、そういう「学び直し」の意欲を呼び覚ます。