尺を取る 

 先日、若手と飲んでいたら、しゃべりがたけしに似てきたとツッコまれた。確かにツービートの頃からたけしには影響を受けてきた世代である。時々、ユーチューブで昔の漫才を見るけれど、あのネタはいまやったらアウトだろう。そんなわけでオイラが影響を受けたたけしの漫才論の中から教育でも通用する話を紹介する。

 

同じ漫才でも、オイラがやってた頃のものと今のものじゃ、ゼンゼン「質」が違うんだよな。まず、「尺」が違うからね。オイラの時代の漫才は、テレビでは7分程度、寄席やストリップ小屋の舞台じゃ15分はやってたんだよ。だけど今のお笑番組を見ていると、ネタは大体4~5分にまとまっているよな。だから、やり方もまったく違ってくるんだよ。

 オイラの頃は、テレビにしても舞台にしても、漫才を始めながら客の顔を見て場の空気を読んで、前振りやスジ振りをしっかりやって、余計な脱線を挟んで温めていって、ってことをステージの上でやってたわけ。

 だから客のほうも聞いているウチにジワジワ面白くなってくるし、芸人の方もドンドン乗ってくるっていう「流れ」が大事だったんだよ。だけど、今の芸人にはそんな時間が与えられていないわけでさ。余計なモノを全部削ぎ落として、次から次にドンドン「オチ」を繰り出さないとダメなんだよ。

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 昔あるトーク番組でたけしがこんな話をしていた。

「今のお客を古典落語のように、アナログで落ちまで引っ張っていくには相当な芸の力がいる。だから漫才はどんどんデジタル化して、笑いのネタを昔ならメートル単位で入れていたのを、センチ単位で入れないとお客がついてこない。ダウンタウンはそれをミリ単位でやっている」

 生徒の集中力が乏しい学校では、いかに生徒を授業に引き込むか、落語や漫才から学ぶべきものが多い。そこには法則性があり、生徒は授業のやり方次第で良くも悪くも変容する。人を引き付ける語りには不易と流行がある。

今回は「尺」つまり、授業時間の枠の取り方。つづく