善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや

 

 A先生のことを書いていたら、 「歎異抄」の衝撃的な言葉が思い浮かんだ。善人が助かるんだから、悪人はもっと助かる。これを学校に置き換えると、真面目な生徒が救われるんだから、不真面目な生徒はもっと救われる。そう言い換えることができる。冗談じゃない。それでは真面目な生徒がかわいそうだ。そんな声が聞こえてきそうだ。

 

 しかるを世の人つねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや

 

 悪人でさえ助かるんだから、善人はなおさら助かる。これが世の常識。そして法律も倫理もそうなっている。「歎異抄」はそのことにも当然触れて、その上で、

 

 この条、一旦そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣に背けり

 

 ただ、その考え方は阿弥陀仏の教えと違う、と言下に切り捨てる。

 

 阿弥陀如来はそんなみみっちい考えではなく、衆生すべてを救おうと発願された。そして善人といってもいつ悪人になるかもわからない。悪人と思われている人も実は善人かもしれない。

 

「僕はあいつよりはましだ」とか「あいつはダメだ」とか無意識に自分を善人ぶっていることの方がむしろあぶない。「どうせ俺はバカだ、クズだ、ダメだ」と自覚している悪人こそが本来の救済の対象なのだ。

 

 やばいA先生が親鸞に見えてきた。ただしそれは今の学校や社会では難しい問題だ。「歎異抄」だって親鸞の考え方がゆがんで異なってきたことを弟子の唯円が深く嘆いて書いたと言われている。だから「歎異抄」。今は「歎異学校」かもしれない。